2017年9月11日月曜日

手を当てる不思議

夕方、姉のところへ新米を持って行った、今は新米の季節で全国的に知られた有名産地のものではない県内産の米であっても艶々と立った飯粒は甘みと香りが素晴らしく漬物だけでも腹いっぱい食えるほどだ。

ついでに台所でいろいろと話をしていると甥っ子がやって来た、そしていきなりトイレを貸してくれと言い足早にそこへ入っていった、数分で出て来ると腹が痛かったのだと言った。

仕事帰りに急に痛くなって慌てて来たらしいが、職場からだと姉の家(甥っ子にとっては母親の家)へ来るよりも自分の家のほうがもっと近いはずなのでクソくらい自分の家でしてこいと言うと7月からウォシュレットの調子が悪いからと言うのだ。

7月から? さっさと修理しろと言えば金がないとモゴモゴと言いにくそうに言う、そこそこの給料貰っているのに年中金欠の困った甥っ子だ。

それは置いておくとして、トイレから出てきて手を洗った甥っ子に「お腹さすってあげようか?」と姉が笑いながら言うと「子供みたいに、いやだ」と決まりが悪そうに言った。

「子供の頃はお腹が痛い時そうやって治してあげてたのよ」と姉がなおも笑いながら言うと甥っ子は黙っていた、いや、私も腹が痛い時は父なり母なりが腹に手を当てて鎮めてくれたものだ、人の手に限らず自分で手を当ててもいた。

腹に手を当てると調子の悪さが軽くなるのはなぜだろう、冷えた腹を手の温かみで落ち着かせるのか、プラセボのような心理的なものなのか、或いはその両方なのか。

いつだったか、誰かがそれを「手当ての語源ではないか」と言った、どうなのだろう、私にはよく分からない。

心理的な面での働きで実際の体調に変化が起きることはあると思う、特に子供は信じやすいのでそういう面の働きは大きいのではないか、私は小学校に入って間もない頃に「目覚まし時計を弄ると歯が痛くなるぞ」と目覚まし時計をおもちゃにするのが好きだった私に止めさせようと父が言ったことがある、半信半疑ながら時計の裏側を弄って時刻を変えたりして遊んでいると本当に歯が痛くなって大騒ぎになったことがある。

驚くことに歯が痛いだけでなく顔が腫れたのだ、そのくせ翌日の病院へ連れて行かれると虫歯など1本もなく痛みも腫れも引いた、全て心理面の影響だとしか説明がつかない。

今は子供の頃のような純粋さも無垢さも無いので暗示の類にはかからなくなってしまったが。

調子の悪い腹具合に手を当てて鎮める不思議、甥っ子はさすってあげようかと言った姉には嫌だと言ったが、台所の椅子に座り無意識のうちか自分でちゃんと腹に手を当てていたのだった。

腐ったものでも食ったのではないかと私が言うと、最近牛乳の飲むと腹の調子が悪くなるのだと答えた、ああ、うちの家系は乳糖不耐症なのだ(2016年1月18日のブログ)、なので私にとっては予め乳糖を分解していない普通の牛乳は下剤のようになってしまう、そんな体質は姉を介して甥っ子にも影響しているのだろうか。

まあ、腹に手を当てて治まる程度のものでよかった。