2013年12月22日日曜日

ご予約は22日まで

あまり美味しくないという噂の近所の某デリカ、店先に出している品は多いのだが評判が良いのはコロッケやミンチカツくらいで他は売れ残りがち。

そこの「予約は22日まで」というチラシはクリスマス用のローストチキンセットについてのもの、1セットで4,500円なり、強気な価格設定ではないのか?

まあ、それは良しとして、「セット」というからにはローストチキンの他に何かが付いているのだろうけれど内容を詳しく見ていないので分からない、決してそれが欲しいわけでもない、我が家にはクリスマスを祝うと言う習慣が無いのでイブであろうと当日でも特に何もせず、ひたすら正月目指して突き進むのみ。

仲間同士で集まってというのは度々あるけれど、それも美味しい料理と酒を楽しむ食事会といったものである。

ただし、貴重な体験が1度だけある、遥か昔に日系アメリカ人のお宅でクリスマスにチキンではなくターキーをいただいたことがある、味は鶏と大差ないようにしか感じなかったけれど、調理方法、香り、食卓のスタイル、その全てが非日常のものだったのでとても新鮮で楽しかった、トムとジェリーでドタバタの舞台になっているアメリカ人家庭のそれだった。

「これが七面鳥か」と呟けば「クリスマスは何を?」という意味の質問をされたので、クリスマスの習慣がないので「特に何もしない」と答えれるとひどく同情されてしまった、幸せな家庭であればクリスマスは家族で特別な日を過ごすという彼らの目にはそう映ったのであろう。

私にとってはせいぜいクリスマス当日に投げ売りされるケーキを買うこともあるという日なのだ。

今日が予約の締め切りだというローストチキン、まさかテーブル胡椒でもすり込んでオーブンで丸焼きにしただけの品ではないのか? ・・・などと意地悪な想像をしつつ、父親が客と家族に切り分けるターキーとクランベリーソースの味、着ているものに移りそうなローズマリーやタイムの香り、そして遥か遠い10代の頃を思い出してしまった。

2013年12月14日土曜日

警察署からの着信

午後10時過ぎ、携帯の画面に不在着信が1件残っていた、発信元は福岡の市外局番092で始まる番号、怪しい業者だろうか・・・と、よく見れば下3桁が「110」なので警察からの着信。

掛け直してみれば確かに警察署、何事かと思い電話番号(言わなくても伝わっているはずですが)と名前を伝える、「ほんの10分ほど前の着信ですが」と言えば受話器を手で押さえながらも「誰か掛けた?」と辺りの人に訊いている声が漏れて伝わってくる。

その結果、誰も掛けていないらしい、ただ、パトカーや交番の発信でもその警察署の番号で掛かってくる仕組みにもなっているらしい、そういった場合は何が原因でどこが掛けて来たのかはわからないと言うのだ、・・・ええっ、分からない? そういうものなのか!?

結局、また連絡があるかもしれないから待機するしかない。

ところが、数時間経っても何の連絡も無し、はて、一体何だろう?

身内に何かあったのではないかとますます気になってしかたがない、実家や甥っ子、姪っ子には既に電話で確認をしたが、行橋や粕屋郡の親類等にも電話確認。

それでも結局分からず、必要であればまた掛かってくるだろうとやはり待つことに。

その後、翌朝になって090発信で友人からの着信、受けてみればお騒がせしましたという詫びの電話だった、警察からの電話の件だ。

何があったのかと訊けば事件や事故等ではなくたいしたことではなく既に解決済みで、自分の携帯電話から数人の番号を拾って警察が電話をしてくれたのだという。

何があったのかははっきりと言わない、言いにくそうにしているし、もう解決したと言うのだからこちらもそれ以上は何も訊かない。

数人に電話をしたということであれば他にも警察から掛かってきた人がいるのか、五十音順で電話帳から拾ったのだと思う、私は最初のほうで登場するはずなので。

日が経って、何かの話の流れで「もう時効だから」などとベタな展開である日喋るのかもしれない。

本当にお騒がせな人、でもまあこれでひと安心。

2013年12月11日水曜日

12日ぶりのテレビ


11月最後の金曜日、風呂あがりに耳の掃除をしながらのんびりテレビを見ているといきなり画面がパッと消えてしまった、・・・思わず綿棒を持った右手が止まる。

試しにコンセントを抜いて数分待ってみたけれど、音だけは普通に聞こえてはいたのだが画面は映らない。

何をどうしても映らない、こういう時は何故本体を叩いてしまうのだろう、叩いても直るわけではないのに。

2013年12月2日月曜日

映画:「去年の夏 突然に」

1959年の古いアメリカ映画、キャサリン・ヘップバーンにエリザベス・テイラーの競演ならば見てみたくもなるではありませんか。


あらすじ:

アメリカ南部の州立病院、そこの外科医はロボトミー手術(脳に外科手術を施し精神的な障害の改善や回復を図るというもの、現在は行われていない)で世に名を知られた男。

ある日その病院へ多額の寄付を地元の未亡人が名乗り出ました、ただし、暗に引き替えとして別地の病院に入院中の姪へのロボトミー手術が条件、外科医は自分が勤める州立病院へ転院したその姪と面接し、外科手術では解決できない暗くて深い心の傷を感じ取るのでした。 


物語の場面のほとんどが病院と未亡人の暮らす邸宅というのがなんとも舞台向き、それ以外は終盤の回想シーンで登場する他所の国の白く眩しい暑い海辺。

邸宅内に設えられている熱帯林風の庭は悪趣味、降りてくると言うよりは「降臨」と言ったほうがぴったりな感じで登場する未亡人が使うエレベーターや室内の装飾もそれにまた近い。

人の話を遮ってばかりの未亡人や、喋りたてるばかりで全く要点を得ない姪の母親などは身近に居そうで登場人物の現実味は充分。

婉曲なセリフを重ねてゆくうちに判明することが次第に増えてくる、回想シーンですら顔を明らかにすることが無かった未亡人の息子は同性愛者であったこと。

しかも未亡人とは近親相姦である可能性を強く感じさせるということ、母親の溺愛が原因か、息子の過剰な強迫観念が原因か、あるいはその両方か。

それぞれが語ることで物語は終盤へ、去年の夏に旅行先で未亡人の息子に何が起きたのかが重要な鍵であることを確信した外科医は邸宅内の庭に関係者を呼び、皆の前で姪に無意識下で隠している過去を明らかにさせるのですが、それは実に衝撃的で凄惨な出来事。

それら諸々を明かす姪の語りと回想シーンがシンクロで流れてゆくのが緊迫感を煽る、それは姪の脳内イメージとして描かれているのですが、唯一最後にイメージと現実との悲鳴が重なるあたりなど良くできていと思う。

ただ、その回想シーンは良かったのですが、その中での出来事は常軌を逸している事態で、そのせいで未亡人の息子は命を落としたということは分かるのだが何がどうなってそこに至ったのかという点、肝心なそのあたりがモヤモヤとしていまひとつ理解できないまま。

もうひとつ解せないのはいつの間にか姪と外科医が恋仲に陥っていたこと、外科医が封印していた記憶を解き放った直後に清々しい笑をたたえる姪と手をとり合って物語は終りなどというのではなく、あれだけ衝撃的な内容を明かしたのだから「点滴を打ちながら1週間入院しました」といった終わり方のほうがまだ納得しやすい。

未亡人役のキャサリン・ヘップバーンは「旅情」、「招かれざる客」、「黄昏」などとはかなり違った役どころで楽しめたものの、正直言えば他の女優さんのほうが良かったかなという気がする。

姪役にぴったりの若いエリザベス・テイラーと消化不良気味のキャサリン・ヘップバーンの競演を見てみたいという人にはお薦め。

このモノクロ映画が作られた1959年に同性愛、近親相姦、ロボトミー、そしてなんとなくカニバリズムすら匂わせる描写は当時としては難しい面が多かったのではなかろうか。

原作がテネシー・ウィリアムズだと言えば、なんとなく物語の風味は推して貰える・・・かも。