2010年12月29日水曜日

黒豆

予定通りに午後4時で仕事場の大掃除も終わった、仕事納めの今日は皆で酒・・・ではなくお茶で乾杯し今年を締め括たのだった、今年も無事に終えることができたと思うとなんだかとてもホッとした。

明日から遠出をする人もいれば、自宅でのんびりという人もいる、あちこちの初売りで頑張る人もいるだろう、また皆とお目にかかるのは年明け4日の仕事始めの日。

戸締りや火の元などを入念にチェックし、入り口に施錠をすれば曇り空の下を歩いて天神へ、今日は雨や雪の心配がなかったので車ではない。

普段より多い買い物客でなんだか狭く感じる新天町をなんとか通り抜けてソラリアから西鉄福岡駅へ移動、横断歩道を渡って正月用の諸々を買い求める客で暑いくらいの大丸の地階で何か手頃で良さそうな物はないかと御婦人方に紛れて手元の品々を漁ってみた。

そこで見付けたのが黒豆、特に大粒だとか有名産地だという品ではなく、ごく一般的な品で300g入り、別商品の大粒な物の半値以下、自宅で食べる分であればそれで充分、敢えて高い物などは選ばない。

そこで買ったものはその黒豆2袋のみ、他のものは・・・明日にでもよそで買うことにしよう。

地階が暑かったので地上へ出て風に当たった、冷たい風が逆に心地良かった。

帰宅後、まず1袋分をざっと洗って水に浸した、浮いてくる豆がひとつも無いので状態が良いの豆なのだろう、一晩置いて圧力鍋で煮ることにした、これは自宅用である。

その後で残り1袋分を同じように浸してまた煮るのである、そちらは実家用、毎年恒例のことだけど圧力鍋を使うようになって昔とは比較にならないほど豆を煮るのが簡単になった、豆ならではの注意点もあるけれど実に便利である。

圧力鍋を知ってしまうともう以前のように付きっきりで水を足しながら普通の鍋で長時間コトコト煮る頃には戻る気にはならない。

ちなみに、圧力鍋で豆を煮る時は他の食材の時よりも量を少なく入れるのが重要な注意点、剥げた豆の皮が蒸気(圧力)の抜け道となる穴を塞がぬように内部に余裕を持たせるためである、そうしないと内部が沸騰した際に剥げて浮いた皮が穴に届いて塞いでしまい内部の圧力が異常に高くなってしまうからだ。

豆を煮る時は危険なので量に注意。>皆様

水に浸した黒豆は徐々に膨張し、それに合わせて水が黒く染まって行くのを見ていると、今年もいよいよ終わりなのだという実感が湧いてきた。

明日の晦日は雨のち雪だという予報、残りもあとわずか2日である。

2010年11月12日金曜日

映画:「めぐりあう時間たち」


近所のレンタルショップで借りたDVDで観た映画、相変わらずネタバレを避けてのぼやけたレビュー。


あらすじ :

物語に登場するのは時代も住む環境も異なる3人の女性、1923年のリッチモンド(イギリス)に住む女流作家と1951年のロサンゼルスの専業主婦、そして2001年のニューヨークでの雑誌編集者、描かれるのはそれぞれの様子。 

彼女らに共通するのは小説「ダロウェイ婦人」、先に書いた作家であるバージニア・ウルフの作品であり、専業主婦の愛読書でもあり、そのタイトル通りのあだ名を付けられているのは編集者だった。 

そんな各々の話の始まりは「お花は私が買ってくるわ」という一節、作家が思いついた一節であり、専業主婦が小説の中からふと拾い呼んだ一節、そして編集者が同居するパートナーへ何気なく言った一言なのである。 


精神を病み生きる意義を喪失した作家と、日々の空虚さと自己欺瞞に鬱の深みへ沈む主婦、余命短い元恋人との呪縛のような関係と過去に疲弊する作家、彼女らは疲れ、そして思い悩んでいる。

普遍的な日常になり得たかもしれぬ日々を描いていて、結局は孤独と苦悩に翻弄された日々の顛末なのだが、これら3人の話が非常に巧妙に入り組んで描かれている、緻密で精巧な腕時計の内部構造のよう。

映画の物語を暗示するかようなオープニング、それを継いで締めくくるようなエンディング、意図的な構成が巧く成功した映画だと思う、暗くて笑える映画ではない、内容を全く理解できない人もいれば、共感する人もいるはず。

この映画はどちらかと言えば好きではないと言う人のほうが多いかもしれない、が、個人的にはお薦め。

終盤の、作家の自宅を訪れる女性のくだりは疑う余地のないクライマックス、めぐりあう時間たちの瞬間で、その最たるものではないだろうか。

それにしてもオープニングのクレジット中に「ニコール・キッドマン」の名前があるのですが、いくら待っても登場しない・・・と思っていたら、とうに何度も登場していました、精神を病んだリッチモンドの女流作家・バージニア・ウルフ役として出演しています。

まるで別人、特殊メイクの賜物ですが、これがニコール・キッドマンだと言われてもなお疑う人は多いかも。

この映画については「映画 めぐりあう時間たち」で検索するとヒットする、ご興味我あればどうぞ。>皆様

2010年11月5日金曜日

職務質問

今朝、まだ暗いうちに自宅を出ていつものように歩いて仕事場へ向かう途中で後ろからバイクが近付く音が聞こえてきた、その通りは決して狭くはないので楽に私を追い越して行ける道幅はあったのだが念のためにもっと端へ寄ってバイクを前へ行かせようとした。

だが、バイクはすぐ隣でスピードを緩めてついに停止、何だと思ってそちらを見れば警察官ではないか、2人組みで、もう1人はすぐ後ろでバイクに跨っている。

「おはようございます、ちょっといいですか?」と声を掛けてきたので「はい、なんでしょう」と答えれば歳は幾つですか、早朝にどこへ行くのですか、持っているトートバッグの中身は何ですか・・・と、いろいろ訊いてくる。

私は46歳、行く先は仕事場、トートバッグの中身は、ほら、着替えが数点・・・、なんだ、職務質問なのか。

自分から身分証として運転免許証を見せ、逆に何事なのですかと訊けば朝刊泥棒の通報が入ったのでその周辺を警ら中なんだと言う、ということは盗まれたのはその近所なのか。

40歳くらいの男が新聞受けから朝刊を抜き取って走り去るのを見た人がいたらしい、その男に特徴(背格好)が似ていたので一応呼び止めてみたということだ。

疑いが晴れたこちらに「すみませんでした」と言う。

いや、そんなことはない、怪しい時はどんどん声を掛けなくてはいけない、それが警察官の仕事でもあるのだ、謝る必要など何もない。

時々、職務質問を受けて食ってかかる人がいる、「私が何をしたと言うのだ!」、「なぜ私が疑われるのだ!」などと怒るのだが、私から見ればなぜ声を荒げて憤慨するのかが理解できない、警察官は何らかの事件に際し容疑者の可能性がある人や、挙動に不審な点を感じる人に幾つか質問をしようとしているだけで、それは警察官の職務として必要なことであり理に適ったことなのだ。

何も怒ることはない、平然と職務質問に応じて協力すれば良いのである。

可笑しかったのは職務質問を受ける私の脇を通る男性が「あの人は何をやったのだろう」と訝しげな顔でチラチラとこちらを見ながら通り過ぎたこと、何もしてないから大丈夫。

それにしても朝刊泥棒とは・・・。

ところで、私は目撃証言のような40歳くらいに見えたのだろうか、いや、それはないか、まだ暗い中の後ろ姿で、しかも帽子を被っていたせいか。

夜更けや夜明け前などは職務質問で声を掛けられやすいけれど慌てたり嫌がったりせず協力してあげて欲しい、逆に、そうやって巡回してくれていることは心強いし、暗い中を歩いていても職務質問によって怪しい者ではないという身の証を立ててくれる人たちだと解釈すれば良いのだと思う。

2010年10月22日金曜日

風邪薬

午後の休憩時間は仕事場で使うイソプロパノール(消毒薬)を買いに近くの薬局へ。

スポーツドリンクやスナック菓子などかなりの量の食料品が店先に並ぶ、パッと見で薬局というより食料品店のよう。

中に入れば季節柄か一角を割いて風邪薬のコーナーができていた、錠剤、カプセル、ドリンク剤、昔からのお馴染みの物も成分が新しくなったらしく商品名は同じながらデザインが変わったものも幾つかあった。

1日2回の服用で済むものなど人気がありそう、・・・値段はかなり高いけれど。

最近の陽気の急変で風邪をひく人が増え、これらの特別スペースの品々もきっと売れ始めるのだろう・・・と思う、ただし、風邪をひいた時に風邪薬を飲むのは治りを遅くしてしまうこともあるので注意が必要。

発熱、そして、鼻水や痰が出たり関節が痛くなるのも、全ては人体が風邪を治そうとする過程の現象、それには意味と目的がちゃんとある、むやみに止めようとするのは逆効果な時もある。

インフルエンザなどは特にそう、熱を下げるのが危険な場合すらある。

この点、発熱したのなら解熱しようとする西洋医学と、逆に体温を上げて温かくしようとする東洋医学の違いにも出ていたりするのだろうか。

映画を見ていても高熱を出した人を氷水を張ったバスタブにえいっと入れてしまうアメリカ映画のシーンがあったりする、その荒っぽさには驚く、高熱より心臓発作でどうかなりそう(汗)、日本だと頭は冷やすが体は冷やさぬように布団をかけてしまうではないか。

・・・風邪薬に頼るタイミングは意外と難しい。

とはいえ不快な症状を風邪薬で抑えつつ、夜は早めに寝たりでなるべく安静にするというのが現実的なのかもしれない、仕事もそう簡単には休めないでしょうし。

そこに並ぶうちからひとつ手にとり箱の裏を読んでみる、その薬の場合は12カプセル入り・・・、1回2カプセルを1日2回=3日分ですね、価格は1,400円強、病院で診てもらうよりは安いのだろう。

そこに入っている3日分でちゃんと治るのであれば・・・の話。

2010年10月19日火曜日

気づかれなかった雨

窓から夜空を見てみればのっぺりとした均一な空、てっきりそれを晴れた空なのだと勘違いしていて、屋外に出てよく見れば曇っているのでがっかりした、それも雨気漂う低い空なのだ。

今朝方、なるべく天頂に近い高い空にカペラ(ぎょしゃ座)が位置するのを待っていた、目的はカペラそのものではなくハートレイ彗星、明るいその恒星が暗くて目立たぬ彗星探しの目印となるって探しやすい。

ちなみに地球最接近は明日の夜。

ところが彗星を探すどころではない、左のこめかみと手の甲にポツリと冷たい点のような雨粒が落ちてきた、そっとデジカメをポケットに収める、これは防水仕様ではないので。

雨はほんの数分間で、雨粒はごく小さくてまばら、もちろん雨量計の中のシーソーをほんの1回でも倒せないほどの雨、なので0.5mmの降雨量にも記録されないレベル、通りに水溜りを作るほどアスファルトを濡らすこともない。

同じ通りを早い外出なのか遅い帰宅なのか男性がやや早足で歩いている、ハンカチで肩のあたりを軽く払いながら通り過ぎて行く。

私は部屋に戻り、軽く朝食を食べ、他の準備を済ませてから念のため傘を持って仕事場へ向かった。

やって来たパートさんたちに折り畳みぐらいは持って来ているだろうと思いつつ「また降り出すかもしれないよ、傘は?」と訊けば「あら、今日雨降るんですか?」と言う、早朝の雨はまだ寝ている間のことだから誰も知らなかったようで。

確かに、まだそんな暗いうちに屋外を見ていたり歩いていたりする人は少ない、今朝の雨はきっとほとんどの人には気づかれなかった雨だろう、眠っている間に遥か遠い雷が己の積乱雲を明るく輝かせてみても、その幕電からは雷鳴が届かないのでスヤスヤと眠ったまま誰も気付かないのと同じことなのだ。

気付いたのは晴れているのだと勘違いした私と、ハンカチで肩を払いながら通り過ぎて行った男性、取り敢えずはこの2人。

加えて、もうどこかで朝刊を配達していたであろう配達員さんたちといったところであろう。

2010年7月27日火曜日

眠っている間に

タイマー設定で眠っている間にエアコンが止まって寝苦しくなり寝相が悪くなるせいか、夏は目が覚めると敷き布団から外れていることが多い、時に片方の脚を敷き布団の下へ、もう片方を上へ乗せて脚の間に挟んでいることもある、今朝は敷き布団から外れているというパターン。

かなり遠くまで転がっていたこともある、眠っている間にどんな行動をとっているものか・・・。

夢は目が覚めてしまうと忘れてしまうけれど、寝相だって似た様なもの、腹が冷えぬ程度の肌布団を丸めてどこかへ押しやり、敷き布団から逃れてしまうまでの自分を録画でもして見てみたいものである。

友人には目が覚めるとパンツを完全に脱いでいたという人だっている、器用に敷き布団の上で頭と足先の位置が逆になっている人もいる、私は幸いなことにまだそのどちらの経験は無い。

枕だけが足元に移動するならば東北地方でよく知られている妖怪のせいかもしれぬが。

朝まで冷房運転続けていれば行儀よく布団の上で目を覚ますだろうか、暑さの寝苦しさで部屋を転がるのではなく、物の怪に足の裏でも突かれて転がっていたりするのであれば少し怖いが珍しい体験である。

まあ、布団からはみ出て目が覚めたからと言って何が困るというわけではない、頭をどこかにぶつけて怪我をするというのでなければ。

ところで、夏は面倒なので布団など敷かずにひんやりとした畳やフローリングの上にゴロリと寝てしまう人もいるらしいが、目がさめた時に体のあちこちが痛くて疲れもとれにくいらしいので、暑くて面倒でも敷き布団はちゃんと敷いて寝たほうが良いようです。>皆様

2010年7月23日金曜日

映画:「ダイアナの選択」

ダイアナの選択」という映画、WOWOWからの予約録画で劇場公開の際にはどんな評価だったのかという以前に、この作品の存在自体知らぬものだった。


あらすじ:

アメリカの田舎町の高校、主人公はそこへ通う17歳の女子高生、町に馴染めず親子関係もしっくりしない蓮っ葉な娘、しかし孤独ではなく保守的で真面目な同級生の親友がいる。

ある日のこと、トイレで授業前のひと時を他愛もないお喋りで過ごすその2人は何事なのだと表の騒々しさに気付く、なんと同校の男子生徒が銃を乱射し誰彼見境い無く銃撃しているのだった。

男子生徒は女子トイレにもやって来て怯える2人に訊く「どちらかを殺す、死ぬのはどちらだ?」・・・と。

時を経て主人公も三十路、優しい夫の妻であり可愛い一女の母親でもあり、平穏な日々に人生の幸福を疑うことなく毎日を送っていた。


だが、その朝は忌まわしき事件から数えて15年目、娘を学校に送る途中で粛々と準備が進む我が母校での追悼式典の様子を横目で見つつ、そして若かりし事件当時に思いを馳せるのだった。


この映画は家庭を持ったその後の主人公と、まだ女子高生だった当時の主人公を切り替えながらという作風、派手なフラッシュバックではなく、ごく自然に、まさにシーンが切り替わるが如く。

見ていて違和感は無く、あちこちに散りばめられている物語の本質や筋に触れる伏線を上手に見せてくれる・・・が、最初のうちはどれにも気付かないかもしれない。

不可思議な展開を怪しみながら見ていた森の中で我が娘を探すシーン、結末が見えて愕然としてしまった、そんな結末にはならないで欲しいと思いつつもまさにその通りであったことが寂しくも悲しい、何か幸せや救いを見出すとすれば何があるのだろう。

それはこの映画を見た人それぞれによって解釈は違うはず。

映画のタイトル「ダイアナの選択」は邦題として上手に付けたと思う、英語の原題を直訳でもすればネタバレに等しい。

オープニングの静かで濃密な色彩の花々や、美術教師となってゴーギャンについて説くシーン、そしてまたもや静かなエンディングクレジットが何故だか印象的な映画、銃の乱射事件は発端に過ぎず、物語の核ではないはず。

万人受けする映画ではないと思う、中盤を中弛みと感じる人も多そう、多くの伏線など面倒だと思う人には退屈な映画になるやもしれず、個人的には良い映画だった。

ちなみに、主人公(女子高生)の親友役を演じるのはエヴァ・アムリ、その母親はスーザン・サランドン、目元がそっくりなのも頷ける。

2010年6月10日木曜日

幽霊誕生

今日は正午過ぎから自転車で20分弱の場所にあるドンキホーテへ、WEBチラシで見付けた電動かき氷機が欲しかったがため。

だが、実物を確認すれば耐久性が不安な感じだったので買わず、新しい歯ブラシと黒胡椒の詰め替えのみを購入、帰り道は来た時と同じように大きな通りではなく古い民家も多い網の目のような路地を通ることに。

スーッと空が暗くなってポツンと雨が落ちたか・・・と思ったらいきなり強く降り始め、箱崎なのか馬出(まいだし)なのかはっきりしない地点で雨宿りで近くの軒下へ逃げ込んだ、
風が強くなって膝あたりに雨が当たり始めたのでもう一段奥へ入れば・・・、そこは誰も住んでいないのが雰囲気だけでも分かる2階建てアパートの1階通路、郵便受けは荒れ放題、どの部屋の電気メーターも機能していないようである。

「家屋は住人を失うと途端に色褪せて古ぼける」と何かの話の中で中学の担任が言ったのを思い出してしまった。

雨宿りしているそのアパートの隣もきっと同じ形の建物であろう住人なきアパート、この2棟は1号棟と2号棟だったのだろうか、どの窓にもカーテンは無い。

1階の奥の部屋、部屋の場所と雨空のせいで暗いながらも窓ガラスが手のひら大で割れているのが見える、風向きによって部屋の内側から何か白い布のようなものが割れた部分に蓋をしたり、また離れたりを繰り返していました。

見ていると何度目かでパッと離れたまま戻って来なくなった、ポッカリと暗い穴が開いている、いつまで見ていても白いものが蓋をすることはなく、それでもジッと見ていると奥にフワリと何か見えてきそうでなんとも言えず気味が悪く、そして怖い。

頭の中で幽霊が誕生した瞬間だ、そこにそんなものは存在しないのに、怖さや気味の悪さを覚えた時に頭の中でぬうっと産まれ、そのまま頭の中をゆらりと徘徊するのである。

その幽霊の寿命は怖かった光景を忘れるまでの間、思い出す度に歩き回ってまた怖がらせるのだろう。

早く降りやんでくれぬかという思いとは逆に、雨はなかなか弱くならない、寧ろ強くなっているのではなかっただろうか、直接地面を叩く雨音と、廃屋となったアパートの雨どいに集まった雨水の音を耳で確かめつつ、ちらちらとその奥の部屋を振り返っては見ていた夕刻のことだった。

2010年5月26日水曜日

おもちゃのような端末


今日の仕事は午後1時まで、帰りは寄り道で自転車がよろけそうなほど強い風が吹く中、大名を通り抜けて天神へ。

ヘッドフォンのイヤーパッドの替えを買いに行けば「使用済み携帯電話の回収にご協力を」というポスターをビックカメラで見かけた、ちょうど店員が剥がしているところで、その後には同じ趣旨の新しいデザインのものを貼っていた。

そう呼び掛けが始まって久しいらしい、実は古い携帯電話をたったの1度でも回収品として引き取ってもらったことがない、手元に残しているのだ、端末コレクターでもないのに。

そう頻繁に機種変更をするほうではなかったので、手元にあるのは最初にPHSを契約した時の東芝製のDL-26Pという今となってはオモチャのようなもの。

その後の端末は1台だけオークションに出品し、落札され、嫁いで行った。

念のため「使用するにはWILLCOMとの契約が必要ですよ」と落札者に伝えたところ「トランシーバーで現場での使用ですので大丈夫」という返答があったので、どこぞの工場や事務所等でトランシーバーモードを活かして従業員間の連絡用として活躍してくれているはず。

更にオモチャのような端末を使っていたこともある、東芝から発売された「テガッキー」というポケベルを一回り大きくしたような端末、なんと通話機能がないのである、1000(2000?)文字までのメールとモノクロで荒いドットの手描きイラストを送るだけの端末。

メールサービスに特化したようなもので、奇抜な端末だったがバッテリーの持ちが良く、入力しやすくて面白い端末だった、使わなくなったのはテガッキーそのものがサービス外の端末となって専用料金コースも無くなったから。

さて、確か姉の下にも古い端末が1台あったような・・・、今でもあるだろうか、私のと一緒に2台を回収品として出してみようか。

貴金属やレアメタルを天然資源として新規に採るよりも、遥かに高密度で効率の良い採りかたができるという、押入れで眠っているだけのそんな古い端末の中に貴重なものが詰まっているなどと、理屈では理解できてもピンとは来ませんけれど。

2010年3月25日木曜日

花とおじさん


今日は普段よりずっと早めの休憩時間をいつものスタバ・・・ではなくペットボトルのお茶を片手に近所の散歩、少しだけ遠くまで歩いてきた。

あちこちに白だ黄色だと花が咲いている、いや、もう花だけではない、柔らかそうな新緑で頭より少し高い位置が段々と埋まり始めている。

日差しはとうに強くなって、うっかりしていると日焼けしてしまう、皮膚に悪いのは知っていて蓄積する毒のようだと言われてはいても、ひとときの散歩の間では特に気にはしない、それより日差しを受けることの心地良さのほうがずっと勝ってしまうせいか。

通りがかった某料亭、通りから垣根越しにほぼ満開の桜が見えている、その遥か上の青空と一緒に撮りたくなって入り口に少しだけお邪魔して上空をパチリ、目線を下へ戻せば馬酔木の花も重そうなくらい咲いていたのでおまけの1枚を狙う、が、なかなか位置が決まらない、携帯の液晶が明るい屋外に負けて確認し辛かったせいだ。

もうちょっと右か・・・、下からか・・・と迷って撮ったところへ後ろから「おじさん何撮ってるんですかー?」と若い女性のものだとすぐに判る声が聞こえる、振り向けば石組の上に20歳ほどの2人が座っているではないか。

「花」と答えれば「あー、きれいですよね」と言う、この年代によくあるおっとりとした口調、逆になぜそんな所でパンを食うのだとモグモグと口を動かす2人に訊けば「お昼どこで食べようかなって思ってたら桜がキレイだったんでちょっと花見しようかってことになったんですよー」。

花見か、よその料亭の敷地内で窓からチラチラ見に来る賄いさんを気に留めることもなく桜を見上げてパンを食うのか・・・、そう思うと可笑しくなって笑ってしまった、いや、人ごとではない、私も携帯片手に花の画像を狙って入って来た輩に過ぎない。

仕事場へ戻るのに福岡城址を通り抜けようとした途中で、前から何故かこの時期で真っ黒に日焼けした人も混じる坊主頭の数人が敷物片手にウロウロしている。

花見がてら、皆でのんびり過ごすのはさぞ楽しかろう、暑くもなく寒くもなくそんなお昼がぴったりの日だった。

2010年2月5日金曜日

宗像市へ嫁ぐ庭木

近所の庭木がよそへ貰われて行くことになった、嫁ぐのは実家町内のお宅の庭に植えられていたイチイの木、庭の半分を駐車場として使うために高さ2mを超えるほどにまで成長したイチイの処分となったようです。

買うと高そうではある。

以前に「要りませんか?」と言われたことがあるのだが、うちの庭は狭くて植えるスペースが確保できないので無理だったのだ。

もちろんよそへ貰われて行くと言っても切り倒して薪にするのえではない、ちゃんと植えてもらうのだ、引き取り手はいないものかと探していたら宗像市内の個人が見つかったという、ただし、実際に引き取りに来るのは今月中旬。

「なかなか大きくならないけど枯れもしないね」というのが口癖みたいになっていた町内のそのお宅、イチイはゆっくり育つのだが割と小さい頃から春に白い花を、秋には甘みのある赤い実を付ける。

そのお宅の人は食べているというのを知って驚いたことがある、イチイの実は無毒だが種は有毒なのだ、噛み砕いたりの心配は無いのだろうか、種は食べぬようにと伝えはしたが。

確か葉も幹も有毒、赤い実の果肉部分だけが無毒だったような・・・。

初めて見ると変わった実だと思う人は多そう、葉も独特、庭木にするには面白い木、先に書いた赤い実は小さくてかわいい、それに綺麗なのだ、「うわ、なんだ、毒があるのか」と嫌うことなかれ、触れても嗅いでも全く影響なし。

そのお宅の2人のお子さんが小さい時はクリスマスになるとイチイの木にいろんな飾り付けをしていたのを見たことがある、お菓子の空箱やガラポンで出てきたカプセルとかぶら下げて。

不思議と飾り付けをすると雨が降っていたけれど(笑)。

そして小学校も高学年になると現実に目覚めるのか飾り付けばしなくなったようだが。

そんなイチイの木、嫁ぎ先で枯れませんように、そして、嫁ぎ先のお宅の人がうっかり種まで食べてしまいませんように。

苦いらしいのでうっかり噛んでも吐き出すとは思うけれど。