日没時刻も過ぎて薄暮の明るさだけ残る曇天の下、キラキラとしたクリスマスセールで賑わう天神の某商業ビルの角を曲がったところで横断歩道を渡って行く知人を見掛けた、知人と言っても面識があるという程度でそれほど親しいわけではない。
前回見掛けたのは一昨年の夏越祭だった、場所は住吉神社、どなたか知り合いの人と一緒に歩いていたのだった。
今日は少し驚いた、とても老けて見えたのだった、着ているものは若いが顔や髪、体型というか姿勢と歩き方、なんだか「おじいちゃん」と声を掛けてもおかしくないほどである。
そして、ああ、やはり老けてしまうものなのだなとも思う。
確か数年前に早期退職し一人住まいをしていた一軒家を売り払って福岡市に引っ越して来た人だ、今は無職だが退職金や土地もろとも売った一軒家のお陰で暮らしに不自由することはない、もうしばらくすれば年金だって入ってくるようになるだろうし、飲み屋では「悠々自適だね」とマスターさんに言われていた。
なるほど、確かにそうかもしれない、仕事に追われることもなく極端な贅沢暮らしをしないのであれば生活が苦しくなることもない、寝る時間も目覚める時間も働いていた頃のように厳しくすることもなく、好きな時に旅に出て、好きな時に食べて飲んで、誰かと一緒に暮らしているのではないので家事全般をいつこなすかは自分の都合で決めればよい、実に気楽なものだ。
ただ、私は常々人は仕事をしなくなる=働かなくなると・・・急激に衰えて老化すると思っている、仕事とは賃金を得るための労働だけに限ったわけではなく、たとえば家族と一緒に暮らしている場合の自分以外のためでもある家事や、無償にせよ辞めるわけにはいかない町内のボランティアだとか老人介護の手伝いなどといったものも含めてである。
何かひとつ義務感で自分を律するサイクルを生活の中に持っていないと心も体も張りが無くなるのだと思う、手仕事にせよ畑仕事にせよ驚くほど高齢なのにピンと若々しく頑張っている人たちがいる、テレビで七十路やそれ以上のそういう人たちを見る度に私は毎回驚く、あの若さは「働く」という充実感から生まれてくるのではなかろうか、それが生きがいになっているというのは大袈裟ではないと思う。
働く充実感など若い人にはいまひとつピンとこないかもしれないが、サラリーマンが金曜の夕方に定時を迎え「今週も終わった、さあ飲みに行こう!」と嬉しそうにしているのは働いているからこそ味わえる喜びなのだ、それとて充実感であり、毎日が日曜日な人には訪れない喜びである。
さて、私も体が動く間は何かしらの仕事は続けていたい、今の仕事が無理になる日は必ずやって来るが、生きがいを感じる何かを続けたいなとは思っている。