2016年7月25日月曜日

老い

一昨年あたりからだろうか、一緒に暮らして40年にはなるという共に六十路半ばを超えた友人夫婦(男同士なので厳密には夫婦ではないが)と会っているとふと気付いたことがあった、その夫婦の片方である年上さんが同じ話を繰り返し口にするようになったのだ。

最初は「ん?」という程度だったのだが、会う度に内心「その話は前回聞いたな」と思うようになり、今日の晩メシを3人で某商店街の中にある昔風な食堂で食っている時の会話では「その話はさっき聞いたな」と繰り返しのスパンが短くなったのではとも感じた。

食堂を出て友人夫婦と別れた後にもう片方の年下さんから「ごめんね、気付いたでしょ? でも仕方ないよね」とメッセージが届いた、そうだ、そういう年齢だから仕方がないのだ。

またしばらくして「気付く度に指摘したほうがいいのかな?」とメッセージで訊かれた、どうだろう、私にはどうしたほうが良いのかは分からないが、うちの母の認知症が進んで同じような場合は内容によっては指摘するようにしていた、「近所の○○さんがお見舞いに来てくれた」と繰り返す時は「うんうん」と何度でも聞いていたが「貼替えないと」と足首の貼り薬を気にする時は「それはもう貼り替えたからまだいいよ」と剥がそうとする手を止めていた。

その都度対応を変えればそれで良いような気はする。

老いは誰にでもやって来る、もちろん私にもやって来る、手の甲や首にシワやたるみが出たりハゲたりするのはなんとも思わないが、体は健康で頭が衰えて行くのはなんとも寂しいことである。

私がそうなった時には程度の差は別として自分が認知症だと自覚しているのだろうか、自分のことなので自覚しておきたいと思う反面、自覚がなければ自分について思い悩むことは少ないだろうなとも思う。

その友人夫婦と一緒に晩メシを食った時間など1時間弱であるが、その間に同じ話が繰り返し出るくらいなので、仕事をリタイアしたその2人がずっと一緒にいる間ではどうなっているのだろうと考えてしまう。

そして、この先どうなるのだろう。

他人事ではない、私は将来どうするべきなのだろう、何はともあれまずは金を貯めるだけしかできないけれど。

日本人の寿命は伸びた、だが、自分で身の回りのことをできる体も頭も健康でいられる年齢はどれくらいなのだろう、単に寿命が長くなったからと言って健康な年齢そのものも長くなったとは言い切れない。

先にも書いたが老いは誰にでもやって来る、私にはどんな形でやって来るのだろう。