2016年6月6日月曜日

拗れる訳文

私は英語が得意ではない、言いたいことを余すこと無く細かいニュアンスさえ潰さず伝えたり、逆に相手の言葉を裏が読めるほど理解できるわけではない、なので英文はなるべく和訳されたものを求めてしまう、確かな能力のある人による和訳は平易に努め、洗練されていて、正しく理解する上で大きく役立つからである。

そんな私でも・・・いや、だからこそ和訳ではなく英文そのものを読んでしまうことがある、それは最近特に目立っている。

私をそうさせるのは機械翻訳の活用が拡がっているせいである、特にスマホのアプリ、海外の日本語を母国語としない人らからのメッセージのやりとりは自動的に機械翻訳を通した訳文が表示されるようになっている、英語のメッセージが届けば和訳に原文を添えて表示され、逆にこちらから日本語でメッセージを投げれば相手側には英訳に原文が添えられていることと思う。

ほんの数語から構成される文章ならば機械翻訳もほぼ正しく処理してくれるが、数行に渡る文章だと何を言っているのかさっぱり解らなくなるどころか、中途半端で妙に高飛車な態度が見え隠れする不躾な文章になり果てて気に障ることも少なからずあるのだ。

数語ならば翻訳を通さずそのまま読んでしまえばそれであっさりと済む、数行なら誤解を避けるためにも解らぬ単語を調べながらなんとか本文を読んだほうが間違いも少ない、結局、少し時間を要するが私は機械翻訳を通さない英文そのものを読んでいるのだ。

日本語と英語を行き来する機械翻訳の精度はどれくらいなのだろうか、仏語と英語では相当な精度で処理され問題なく機能するほどまでに使えるらしいではないか、だが、日本語と英語だとそれはまだまだ遠い話なのだろうと感じている、実際に機械翻訳を通した結果を見ていてそう思う。

今日の夕方にオーストラリアの人からメッセージが届いた、和訳の文章は宇宙語のようで何を言いたいのか解らない、私には2種類の選択肢があって相手(メッセージの送信者)に知らせる必要があると言っているのだが何のことなのだろう? 仕方なく英文そのものを辿ってみると・・・何と言うことはない、メールかメッセージ(アプリの)の連絡先をどちらか交換したいと言っているだけだった。

言葉の違いが人との繋がりの障害にならないと信じている人も多いが、私はいろいろと難しい面もあると思っている。

余談だか英文を自分で読み書きする時にいまだに基本的なところで混乱するころがある、「Yes」と「No」の使い分けである、日本語と英語では使い方が逆になることがあるのだ、私はいまだにこれで一瞬考えることがある、「この場合、日本語だと『はい』だが、英語だと『No』なのだろうか」といった具合である。

英語が堪能な人に笑って「そのうち慣れるよ」と言われてから20年近くが経つ、だが、私はいまだに慣れないのである。