2018年2月20日火曜日

死ぬというのは大変なこと

わりと頻繁にメッセージを交わす遠くの友人がいる、食べ物からデジタルグッズまで嗜好や趣味がよく重なるので話が合うのだ。

そんな気の合う友人ではあるがあまり好きではないフレーズがメッセージ中に度々登場する、「あーもう死にたい」や「死にそう」というものである。

仕事がうまくいかなくなると目立って登場するので「死にたいほどの窮地ではないだろう」と言えば「いや、冗談だから」と答える、もちろんそうだろう、ちゃんと分かっている、成人病の治療で毎月の通院を欠かさずに投薬治療も続けているのは少しでも健康に近づいて長く生きていたいからだ。

それでも冗談の「死にたい」は好きではない、思い出すのはありとあらゆる治療を試みても還暦前に亡くなった私の姉(長女)だ、死の数日前に傾眠状態からフッと目が覚めて声を出すには足りない力の全てを左手の小指に注いで隣に添えていた私の手の甲にトンと触れたのが意識のあるうちの最後のものだった、姉はどんなに生きていたかっただろう、かなりの高齢出産で誕生した我が娘がどんな人と結婚するのだろうとずっと楽しみにしていたというのに。

先の友人とは別の友人で私と同年代でありながらほとんど働かない人がいる、贅沢さえしなければ同居人の稼ぎで生きていけるので働かなくてはならないといった自覚がないのだ、現実は同居人の稼ぎがどうであれ自活能力という点では崖っぷちなのだが。

もし同居人が働けなくなったり捨てられたりすれば生活はどうするのだと訊いたことがある、本人曰く「その時は死ぬだけ」らしい、ポックリ逝ってしまえるのならそれがいいとも言った。

だが、実際には死ぬにも金はかかる、無一文で死なれては周りが困るのだ、本人が望むようにポックリ逝くのが自分の部屋だろうと病室だろうとその後の費用は誰がみるというのだろう、誰かに何かを伝え、思い残すことが無くなってから後始末も万全な状態で一生を終えるのならまだしも、世の中の諸々が面倒だからと逃げるが如く死ぬからいいなどという考えはあり得ない。

これから寿命を迎えるまでの時間を生きようとするのはいろいろと大変ではあるが、これまで生きてきたもっと長い時間を閉じて死ぬのもまた大変なことなのだ。

私は冗談でも死にたいなどとは思わない、死ぬなどまっぴらである、どんなに細くてもいいので長生きをして今日知り得なかった新しい明日を見てみたいと思っている。