2016年9月12日月曜日

歌詩は全体で

甥っ子が部屋にやって来た、今日から始まった筥崎宮の放生会に行くついでに寄ってみたのだという、晩メシを食っている最中だった、どこのお宅に寄る時もそういう時間帯は避けるようにと言い聞かせておいたのだが、なかなかピンとは来ないようだ、まあよい。

食い終わるまでそこにいろとテレビの前に座らせていたのだが、退屈したのかその近くでヘッドフォンを繋いだままの私のオーディオプレーヤーを見付けて聴いていた。

「この曲知っている、爽やかな歌」とこちらを振り向いて言う、そんな感じの曲など入れただろうかと片方の耳からヘッドフォンを奪って聴いてみるとトム・ジョーンズのベストアルバムに収録されている「Green Green Grass of Home」だった。

穏やかな曲調と英語が不得手な甥っ子でも気付くタイトルと同じサビの部分が爽やかだとイメージさせるのだろう、そこに青々とした緑の草地の中の我が家が見えるのではないか、もしや涼風の吹き渡るそこは草がたなびいているような、そんなイメージではないのか。

だが、この曲はそんな爽やかな歌詩ではない、確かにそこに描かれている情景は青き草地にある懐かしの我が家でなのだが、同じく登場する自分に会いに来て微笑んでくれる人たちも、共に通りを歩いた美しきメアリーも、これは歌う本人が見た夢の内容だったのだ。

そこで目がさめると四方を冷たい土壁に囲まれていて、そこにいるのは警備と悲しげな老いた神父だったという歌詩、死刑囚が刑の執行前に見た夢を歌った悲しい曲なのである。

出だしから締めまで歌詩はそれほど長くない、伝える内容と力のある歌詩はその中に意味をしっかり詰めてくる、甥っ子が耳にした曲もそう、一部だけを抜き取った解釈だけでは何かと足りないのだ。

たとえば中島みゆきの「わかれうた」、有名な曲なので歌詞の内容はほとんどの人が知っているだろうからあらためてここで意味を書くことはしないが、初めて聴いた人がいたとして、出だしの「道に倒れて誰かの名を呼び続けたことはありますか」という部分のみから狭心症の発作で路上に倒れた女が苦しくて助けを呼ぶ救急搬送直前の曲だと解釈したとしたら誤りなのと同じ。

そういえば、結婚式で山口百恵の「いい日旅立ち」を歌う人がいて周りが苦笑したという話を聞いたことがある、たぶん、やはりタイトルと同じ「いい日旅立ち」という歌詩の一部が嫁ぐ娘像にぴったりだと解釈してのことだと思う。

だが、この曲も別れの歌だ、何れかと決別し去り行こうとする人の心情を歌ったものである。

素敵な曲の歌詩は是非、頭から尻尾まで余すところなく召し上がれ。