2016年5月10日火曜日

実らぬもの

数年前までは一軒家だった実家町内のとある場所、今ではそれほど高さはないが賃貸マンションが建っている、今日は同じ町内の人から先々週の出来事なのだがそこの住人の行動についてひとつ話を聞いた。

その賃貸マンションの向かいに住むお宅には大学生の娘さんがいる、いつも地下鉄の駅まで自転車で行き、そこへ駐輪し、そして地下鉄に乗って学校に行き、また夕方に戻って来くるというサイクルらしいのだが、不思議なことにこの数ヶ月というもの何故だかいつも自転車がピカピカで汚れたことがなかったという、雨が降ろうがPM2.5に晒されようがピカピカのまま、それどころかチェーンに注油がされていることもあり、たぶんタイヤの空気も補充されていたようで本人はただの一度もメンテナンスなどしたことがないという状態。

きれいなのは嬉しいが、なんだか気味が悪いなと家族に相談、一体どういうことなのだろうと思っていた矢先、深夜に向かいの賃貸マンションに住む若い男性が駐車場の脇に停めていた自転車を磨いているのを父親が目撃したという、男性は大学生の娘とは通りで出会った時に挨拶をするくらいの面識しかないが、男性は好意から自転車を磨いていたのだと言ったそうである。

次は警察に通報すると警告の上で二度としないと約束させたところ、更に男性は近日中に引っ越しし、そしてもう近づきませんとも約束し、そして今月の連休明けの昨日に引っ越して行ったという。

男性に悪意は無かったのかもしれないが相手にしてみれば不気味で怖い行動である、嬉しくなどないだろう、引っ越して行った男性は好きだという感情を抱いていたのだろうが、今ここでピシャリとブレーキを掛けられたのは双方にとって良かったと思う、既にストーカーと呼べる状態であり、好意も捻れて歪めばとんでもない方向へ向かうかもしれないからだ。

まあ、よそへ引っ越しても再び何かしらの干渉は起きるかもしれないので警察への相談も考えたほうが良いのではと町内の人らはアドバイスしたという。

私が中学生の頃、土曜日の放課後に理科室の清掃をしていた時のこと、1時間ほどの作業を終えて廊下側の窓辺から風を入れて一息ついていると、向かいの棟の私の教室には下校時間も過ぎて空っぽのはずなのに誰かがいたので何をしているのだろうと見ていたら女子のTさんだった、忘れ物でも取りに来たのかと思っていると苗字のイニシャルが同じT君という男子生徒の机から縦笛を取り出したのだった。

1クラスに40人の生徒がいるので机も40脚あるのだが、Tさんは適当にその中の何れかを選んだのではない、ピンポイントでそれを選んだのである、私はそう確信している。

私が清掃作業をしていた理科室のある棟と、Tさんがいた私の教室のある隣の棟とは「隣の棟」と言っても大した距離ではない、3階の窓から見下ろす私の教室は2階、文字は見えぬが胸の名札の位置や目線などははっきりと分かるのだ、それくらいしか離れていない。

縦笛は生徒全員が同じ布製のケースに入れて持っているのだが、Tさんはそこから笛を取り出し、そっと口を当てて軽く吹いたのだった、その音は微かに私のところへも届いた。

私は見てはいけないものを見てしまったような気がして何とも居心地が悪かった、・・・と、そんな私の視線を感じてかTさんはこちらに顔を向けたのだった、一歩後ずさりするような感じで動きを止め、そして縦笛を放り出し、悲鳴のように泣き叫びながら走って教室から消えてしまった。

日曜を挟んで月曜になり、Tさんは普段通りに登校してはきたが、私はそれ以後卒業するまで言葉を交わすことは無かった、話しかけられれば返しはするだろうが、Tさんもそれはしたくなかっただろうと思う。

縦笛のことなど知らぬT君には「床に落ちていたよ」と洗わせただけである。

中学時代の忘れられぬ、なんとも言えぬ思い出である。

誰かへの好意は恋愛感情と呼べるほどに昂ぶると厄介な場合がある、それが一方的ならばなおのことである。