冬であることを忘れそうになるほど暖かだった午後、天神から実家町内へと向かう途中で横切るいつもの公園は親子連れが目立っていた、母親だけではなく父親であろう人の姿も一緒だったのはまだ正月休みが明けていない人だったのだろう、平和だなと思う光景だった。
少し離れて引率の大人4人と5歳くらいに見える子ばかり7、8人のグループがいた、大人は敷物を手に子供たちを誘導し適当な場所に座らせようとしているのだが2人の子が嫌だと言って先へ進まない、大人4人のうちの1人が何か話しかけている。
私は公園を横切るのにそのグループの横を通らなくてはならない、歩き進むと子供と大人の会話が聞こえ始めた「怖いの?」と子供に訊いている、「あれ?」と大人が指を差すと子供は頷いた、私は「あれ」が何なのだろうかと振り返って見てみた、すぐには分からなかったが子供が怖がっているのは瘤(こぶ)だ、木の幹の瘤なのだ。
大人にすれば「なんだそんなもの」程度なのだろうが、子供の目と頭はその瘤の中に誰かの顔と表情を見出すのではないだろうか。
「みさ子ちゃん」という同じクラスの子がいた、私が小学5年の時のことだ、たまに図画工作の拡大版としてクラスごと公園や寺などにお邪魔してスケッチをすることがあったのだが、みさ子ちゃんは自分が選んだ深い青のリンドウの花を描いていて途中から別方向の木に瘤を見付け「おじいちゃんにそっくり」だと言って怖がっていた。
最初の枝が出ている少し下、そこに膝小僧のように盛り上がった瘤があり、その表面はでこぼことしていた、パッと見はただの瘤なのだが、角度を変えると横目でこちらを見ている老人の顔のように見えなくもない、その鼻は低く、やや頬骨が張った感じで、表情は乏しく楽しそうではなかった、そうやってひとたび顔のようだと思ってしまうと顔以外のものとしては捉えられず気になって仕方がない。
みさ子ちゃんも、周りの子も、最初のうちは「こっち見てるー!」などと笑ってはいたが、結局は怖がって誰も近付こうとはしなかった。
人はどうしてそこかしこに顔と表情を見つけるのだろう、元々そういうデザインでもない偶然なのだが郵便ポストが目と口のある顔に見えることもある、電車やバスのフロント部分もそうだ、ライトが目のようで下部に口のように見える何かがあり、笑顔のように思えることすらある、そういったものは低い足元から高く見上げる場所まで至る所に存在している、大人は探さないし気にも留めないので気付く機会は少ないだろうが、子供は探さずともそれを一瞬で見付けてしまう、「子供能力」とでも呼ぼうか。
自分をジッと見つめる木の瘤は、同じ瘤であっても見る人によって誰の顔か、どんな表情なのかもおのずと違ってくるのではないか、みさ子ちゃんにとってはお祖父さんだったのだが、別の人ではお祖母さんかもしれない、はたまた近所の誰かやアニメの中のキャラクターだったりなど、面白いことである。
今日の公園の子供2人は嫌がっていたがその後どうなったのだろう、たぶん少し場所を変えたかもしれないが、私は既にその場から離れていたので分からない。