2013年12月22日日曜日

ご予約は22日まで

あまり美味しくないという噂の近所の某デリカ、店先に出している品は多いのだが評判が良いのはコロッケやミンチカツくらいで他は売れ残りがち。

そこの「予約は22日まで」というチラシはクリスマス用のローストチキンセットについてのもの、1セットで4,500円なり、強気な価格設定ではないのか?

まあ、それは良しとして、「セット」というからにはローストチキンの他に何かが付いているのだろうけれど内容を詳しく見ていないので分からない、決してそれが欲しいわけでもない、我が家にはクリスマスを祝うと言う習慣が無いのでイブであろうと当日でも特に何もせず、ひたすら正月目指して突き進むのみ。

仲間同士で集まってというのは度々あるけれど、それも美味しい料理と酒を楽しむ食事会といったものである。

ただし、貴重な体験が1度だけある、遥か昔に日系アメリカ人のお宅でクリスマスにチキンではなくターキーをいただいたことがある、味は鶏と大差ないようにしか感じなかったけれど、調理方法、香り、食卓のスタイル、その全てが非日常のものだったのでとても新鮮で楽しかった、トムとジェリーでドタバタの舞台になっているアメリカ人家庭のそれだった。

「これが七面鳥か」と呟けば「クリスマスは何を?」という意味の質問をされたので、クリスマスの習慣がないので「特に何もしない」と答えれるとひどく同情されてしまった、幸せな家庭であればクリスマスは家族で特別な日を過ごすという彼らの目にはそう映ったのであろう。

私にとってはせいぜいクリスマス当日に投げ売りされるケーキを買うこともあるという日なのだ。

今日が予約の締め切りだというローストチキン、まさかテーブル胡椒でもすり込んでオーブンで丸焼きにしただけの品ではないのか? ・・・などと意地悪な想像をしつつ、父親が客と家族に切り分けるターキーとクランベリーソースの味、着ているものに移りそうなローズマリーやタイムの香り、そして遥か遠い10代の頃を思い出してしまった。

2013年12月14日土曜日

警察署からの着信

午後10時過ぎ、携帯の画面に不在着信が1件残っていた、発信元は福岡の市外局番092で始まる番号、怪しい業者だろうか・・・と、よく見れば下3桁が「110」なので警察からの着信。

掛け直してみれば確かに警察署、何事かと思い電話番号(言わなくても伝わっているはずですが)と名前を伝える、「ほんの10分ほど前の着信ですが」と言えば受話器を手で押さえながらも「誰か掛けた?」と辺りの人に訊いている声が漏れて伝わってくる。

その結果、誰も掛けていないらしい、ただ、パトカーや交番の発信でもその警察署の番号で掛かってくる仕組みにもなっているらしい、そういった場合は何が原因でどこが掛けて来たのかはわからないと言うのだ、・・・ええっ、分からない? そういうものなのか!?

結局、また連絡があるかもしれないから待機するしかない。

ところが、数時間経っても何の連絡も無し、はて、一体何だろう?

身内に何かあったのではないかとますます気になってしかたがない、実家や甥っ子、姪っ子には既に電話で確認をしたが、行橋や粕屋郡の親類等にも電話確認。

それでも結局分からず、必要であればまた掛かってくるだろうとやはり待つことに。

その後、翌朝になって090発信で友人からの着信、受けてみればお騒がせしましたという詫びの電話だった、警察からの電話の件だ。

何があったのかと訊けば事件や事故等ではなくたいしたことではなく既に解決済みで、自分の携帯電話から数人の番号を拾って警察が電話をしてくれたのだという。

何があったのかははっきりと言わない、言いにくそうにしているし、もう解決したと言うのだからこちらもそれ以上は何も訊かない。

数人に電話をしたということであれば他にも警察から掛かってきた人がいるのか、五十音順で電話帳から拾ったのだと思う、私は最初のほうで登場するはずなので。

日が経って、何かの話の流れで「もう時効だから」などとベタな展開である日喋るのかもしれない。

本当にお騒がせな人、でもまあこれでひと安心。

2013年12月11日水曜日

12日ぶりのテレビ


11月最後の金曜日、風呂あがりに耳の掃除をしながらのんびりテレビを見ているといきなり画面がパッと消えてしまった、・・・思わず綿棒を持った右手が止まる。

試しにコンセントを抜いて数分待ってみたけれど、音だけは普通に聞こえてはいたのだが画面は映らない。

何をどうしても映らない、こういう時は何故本体を叩いてしまうのだろう、叩いても直るわけではないのに。

2013年12月2日月曜日

映画:「去年の夏 突然に」

1959年の古いアメリカ映画、キャサリン・ヘップバーンにエリザベス・テイラーの競演ならば見てみたくもなるではありませんか。


あらすじ:

アメリカ南部の州立病院、そこの外科医はロボトミー手術(脳に外科手術を施し精神的な障害の改善や回復を図るというもの、現在は行われていない)で世に名を知られた男。

ある日その病院へ多額の寄付を地元の未亡人が名乗り出ました、ただし、暗に引き替えとして別地の病院に入院中の姪へのロボトミー手術が条件、外科医は自分が勤める州立病院へ転院したその姪と面接し、外科手術では解決できない暗くて深い心の傷を感じ取るのでした。 


物語の場面のほとんどが病院と未亡人の暮らす邸宅というのがなんとも舞台向き、それ以外は終盤の回想シーンで登場する他所の国の白く眩しい暑い海辺。

邸宅内に設えられている熱帯林風の庭は悪趣味、降りてくると言うよりは「降臨」と言ったほうがぴったりな感じで登場する未亡人が使うエレベーターや室内の装飾もそれにまた近い。

人の話を遮ってばかりの未亡人や、喋りたてるばかりで全く要点を得ない姪の母親などは身近に居そうで登場人物の現実味は充分。

婉曲なセリフを重ねてゆくうちに判明することが次第に増えてくる、回想シーンですら顔を明らかにすることが無かった未亡人の息子は同性愛者であったこと。

しかも未亡人とは近親相姦である可能性を強く感じさせるということ、母親の溺愛が原因か、息子の過剰な強迫観念が原因か、あるいはその両方か。

それぞれが語ることで物語は終盤へ、去年の夏に旅行先で未亡人の息子に何が起きたのかが重要な鍵であることを確信した外科医は邸宅内の庭に関係者を呼び、皆の前で姪に無意識下で隠している過去を明らかにさせるのですが、それは実に衝撃的で凄惨な出来事。

それら諸々を明かす姪の語りと回想シーンがシンクロで流れてゆくのが緊迫感を煽る、それは姪の脳内イメージとして描かれているのですが、唯一最後にイメージと現実との悲鳴が重なるあたりなど良くできていと思う。

ただ、その回想シーンは良かったのですが、その中での出来事は常軌を逸している事態で、そのせいで未亡人の息子は命を落としたということは分かるのだが何がどうなってそこに至ったのかという点、肝心なそのあたりがモヤモヤとしていまひとつ理解できないまま。

もうひとつ解せないのはいつの間にか姪と外科医が恋仲に陥っていたこと、外科医が封印していた記憶を解き放った直後に清々しい笑をたたえる姪と手をとり合って物語は終りなどというのではなく、あれだけ衝撃的な内容を明かしたのだから「点滴を打ちながら1週間入院しました」といった終わり方のほうがまだ納得しやすい。

未亡人役のキャサリン・ヘップバーンは「旅情」、「招かれざる客」、「黄昏」などとはかなり違った役どころで楽しめたものの、正直言えば他の女優さんのほうが良かったかなという気がする。

姪役にぴったりの若いエリザベス・テイラーと消化不良気味のキャサリン・ヘップバーンの競演を見てみたいという人にはお薦め。

このモノクロ映画が作られた1959年に同性愛、近親相姦、ロボトミー、そしてなんとなくカニバリズムすら匂わせる描写は当時としては難しい面が多かったのではなかろうか。

原作がテネシー・ウィリアムズだと言えば、なんとなく物語の風味は推して貰える・・・かも。

2013年10月22日火曜日

胡麻油は胡麻から

今日の仕事は夕方までで、午後の休憩時間をお茶を飲みながら厨房からぼんやりと外を眺めていた、秋風吹く晴れた空の下を週に何度かうちの店へ来てくれる近所の会社の若い営業さんが歩いて来るのが見えた。

遅い昼食のようだ、今日はこちらが午後の休憩時間に入った頃に遅めである、いつものようにスーツ姿の同僚さんとではなく専門学校に通っているという普段着で痩せた弟さんと一緒に。

休憩を切り上げて注文の品を作る、出来上がりを持って行ったのはパートのおばさんではなくこの私、休憩時間を持て余していたので何かすることはないかと探していたところなのでちょうどよかった。

普段は裏の調理場ばかりで表にはほとんど顔を出さない、なのでたまに出て行くと「おや、あの人は誰だろう?」とお客さんから不思議そうな顔をされることがあるのが可笑しい。

さて、若い営業さんとは顔馴染みなので挨拶と少しだけ雑談、「うちの弟です」と隣の若い人を指差す、あまり似ていないその弟さんが「どうも」とこちらに笑う。

続けて「いい匂いですね!」と手元の料理のことを言う、それは鶏肉に酒と粗塩を揉み込んで胡麻油を使って強火で焼いたものでとても香ばしい品なのだ。

そう言うと油にどれだけ胡麻を入れたのですかと訊かれた。

んん? どれだけ?

・・・いや、違う、胡麻油は胡麻を圧搾し(或いは薬品処理で)取り出す植物油なのだと答えれば、てっきり「油」の中に胡麻をドサッと入れて漬けるか混ぜるか振れば「胡麻油」の出来上がりなのだと思っていたらしい。

まあ、確かに油に胡麻を浸せば少しくらいは胡麻油が油に馴染んで滲み出してくるかもしれないが。

随分と昔に某所で「寺と神社は別物なんですか?」と20代の人に訊かれた時は驚愕したことがあるが今回はそれほどではない。

ただ、正直なところ、「ひょっとしてあまり知られていないことなのか」と少しだけ驚きはしたけれど。

胡麻油は胡麻から、オリーブ油はオリーブから、ただし、サラダ油はサラダからではない。

2013年10月11日金曜日

猿の遺産

午前中のこと、パートのおばさんがレジの感熱ロール紙が残り少なくなったので新しいものを準備しようと棚の上段に置いていた箱を取り出した際、その上に乗っていた使いかけのカーボンロールがハラリと下に落ちて来たらしい。

「きゃあ!」と驚きの声をあげるパートさん、床には長くほどけたカーボンロール。

「びっくりした、スルッと落ちてきたのでヘビかと・・・」と他のパートさんと笑う。

そもそも人は何故ヘビを怖がるのだろう、絞め殺されかけたり毒ヘビに咬まれて死にかけたという経験がなくとも音も無く地を這う蛇を見つけると怖がるか嫌がるか、いずれにせよ良くは思わない。

怖くはない、嫌いではないと言う人は少数派だと思う。

大人しいヘビはいくらでもいる、人を噛む犬だって中にはいる、それなのに大方の場合だと犬は好かれ、ほとんどの場合ヘビは嫌われる。

あのパートのおばさんも塀の上に猫が座ったままこちらを見ているのに気付けば「あら」とでも言って微笑むかもしれないが、ヘビがとぐろを巻いてこちらを見ていたとなるとやはり「きゃあ!」に行き着くはず。

とりあえずヘビを怖がる理由は猿から進化する際に受け継いだ本能的なものというのはどうだろう。

猿は無条件でヘビを怖がる、異常な怖がりかたをする、枯葉の上をヘビが這っているのを見つけると木の上で鳴き叫んでパニックに陥る、あの恐れようが進化してもなお人に受け継がれているのでは・・・という考え。

・・・などと私がそんなふうに考え始める以前から同じような考えを持っていた人はそこそこいて、逆に無関係だと言う人も同じくらいいて、実際のところはどうなのかはよく解らない。

まあ、どちらか正しくともヘビは嫌われやすいことに変わりは無いのだけれど。

私は平気でヘビに触る、最初に手で掴んだのは保育園の時で、道具箱を収めようと棚に押し込んでも何故か入らないので奥を覗けば粘土(油粘土)が置かれていて、仕方なくその粘土を引っ張り出してみれば実はヘビだった・・・というのが最初。

ツルツルした生き物という感覚だったので怖さは無く、見た目や手の感触で観察していた時に騒ぎ出したのは先生たち、そう、今思い出してみれば猿の群れを彷彿とさせる騒ぎかた。

ほら、やはり猿から譲り受けた遺産なのかもしれない。

2013年9月14日土曜日

ウヴァ

仕事の帰りは頼まれものの80年代の古いパソコン雑誌を数冊持って友人宅へ、あちこちセロテープで補修済みのそれを見て一言「痛々しい」と言う、・・・しかも笑う。

一部ページがかすれて読みにくいのでその場で説明、ちゃんと理解してもらえた上に「これ以上ボロボロにはしない」と言ってくれたので安心した。

「これ以上ボロボロにはならない」が本当のところだったりして(笑)。

その後しばらく雑談、目の前にはミルク入りの紅茶、その友人が淹れてくれたもの、紅茶にはかなりの知識と拘りがある人なのだ。

紅茶を入れる器具すら珍しいこちらには全ての手順が面白い、漂う濃密な香りで頭がスッキリする、良い香りだ。

紅茶と言えばスーパーで買うティーバッグか、ペットボトルに入ったものしか口にしたことがない、友人のはもっと別なものに仕上がっていて大変美味しかった、その茶葉は「ウヴァ」という名でセイロン産のものらしい、正直なところ初めて聞いた茶葉の名前。

紅茶にも旬があるらしい、本当に奥が深い、余談だが私は紅茶と緑茶の茶葉は同じで発酵させるか否かでどちらかに分かれるのだと知ったのは成人してからのことだった。

どこで売っているのかと訊けば紅茶専門店だとか、福岡にもそういう店があったのか・・・と、思い出したのは福岡大丸の上の紅茶専門店、何の店だろうと覗きこんで紅茶専門店だとオープン間もない頃に知ったのである、きっと他にもあるのだろうけど。

ついでに紅茶でゆで卵を煮ることもあると教えてくれました、美味しいのかと訊けば模様を付けるだけらしい、ゆで卵を軽く叩いて殻にヒビを入れ、それを紅茶の中に落として一度煮立てて火を止め、そのまま冷めるまで置くだけ。

出来上がりはマーブル模様、・・・うん、確かにそうなるでしょう、料理に添えれば見栄えが良くなるらしいのですが実物を見たことはまだない。

実際に見てみたい、試してみようか。

「今度別の紅茶を淹れてあげよう」と自信たっぷりに言ってくれた、この人が淹れてくれるのなら美味しいだろうと思う、是非お願いしたい。

2013年9月1日日曜日

「9月には帰らない」

いよいよ9月、暑さは相変わらずだが気分的に日差しも色温度が低くなって赤みを帯びたような気になってくる。

カレンダーに合わせたわけではないけれど「9月には帰らない」という曲をCDで久々に聴いた、松任谷由実の隠れた名曲だと思う、歌詞の解釈も人によって違ってきそうで面白い、「潮騒」を「しおざい」と読むのも個人的にはとても気に入っている。

そう、ユーミンこと松任谷由実、私は熱心なファンというわけではないがこの人の曲で知っているものはかなりあります、ほとんどはラジオからだったが荒井時代からのものをよく耳にしていたものだ。

私が最初に買った邦楽アルバムが井上陽水の「氷の世界」、次がりりィの「タエコ」、そして3枚目が松任谷由実の「OLIVE」。

先の2枚と同じように月々の小遣いから貯めて買ったその中の「冷たい雨」が特に好きで、悲しい歌詞なのに暗くないポップな曲に仕上げて歌っているのが新鮮で、何度も繰り返し聞いたのを思い出す。

松任谷由実の曲で1番好きなものは? ・・・と誰かに訊いて「霧雨で見えない」というタイトルを答えた人はまだいない、私はアルバム「ダイヤモンドダストが消えぬまに」の最後に収録されているそれが松任谷由実の楽曲の中では1番好き。

確かずっと昔に三菱自動車のCMに使われていたような記憶がある、シタール風の楽器(シタールそのものなのか?)の音が印象的な間奏部分も好き、興味と試聴の機会があれば是非どうぞ。

ところで、いろんな点で松任谷由実と中島みゆきを比べる人がいる、ネット上でもリアルでも。

この両者は向きや主張の土俵が違うので曲そのもので比べるのはあまり意味がないように思うのだが、活動歴が長く成功したシンガーソングライター同士として比べるのであればまあ理解できる。

曲そのもので松任谷由実と比べるのであれば、その中の主人公像がいろんな点で重なり、アピール層も被る竹内まりやのほうが個人的にはしっくり来るのだけれど。

2013年8月24日土曜日

「夜がいいね」

今年は行くのかと訊かれカレンダーをめくって確かめてみる、行くなら一緒にどうだとも誘ってくれた、月日の流れは早いなと今年何度目かで同じように繰り返しそう思う。

訊かれたのは来月の放生会、こちらでは「ほうじょうえ」ではなく「ほうじょうや」と言う。

博多三大祭の締めくくりは東区の筥崎宮で来月12日から18日、どうせ行くのなら昼間よりも灯りがきれいな夜がいいと誘ってくれた友人は言う。

・・・はい、私も夜のほうがいい、灯りのある露店が並ぶのはきれいというよりは独特の楽しさがあるし、きっと昼間よりは幾分涼しいだろう、できれば行くなら人が少なめな平日で。

夜の露店は楽しい、そこで売られている品々はどれもB級で安っぽい品ばかり、やや割高感もあるものの、お祭りに限って言えば実のところあまりマイナスに考えたことはないだ、私はきっと祭りの雰囲気を楽しんでいるのだと思う。

昼間は今でもお化け屋敷のようなものはあるのだろうか、子供の頃にはまさに子供だましな「ヘビ女」が居て見物料(確か300円だった)は詐欺だと憤慨したものだが今となっては笑える遠い思い出になっている。

なにせ、サーッと幕が開くと上半身は肌色の下着のようなもの、そして下半身は「鯉のぼり」のようなものを腰から下で穿いて(?)いるおばさんが横座りしてこちらを睨み回しているのだった、ほんの2分くらいそんな具合で「ヘビ女」は終わり。

「なんだあれは」・・・テント内は失笑の渦、ほら、怒りたくもなるではないか(笑)。

実家近くの今の住まいへ引っ越して来る前は、その筥崎宮の参道に近い場所に住んでいました、普段は静かな場所なのだが放生会期間中は喧騒の日々となる。

あまりに近すぎると行きたいとは思わず、周辺道路の渋滞にうんざりしていたのですが、少しでも離れた今では不思議と行ってみたいなと思う。

9月に入れば少しくらいは涼しくなっているだろうか、天気の良さそうな日を選んで地下鉄で行ってみようか。


リンク:「筥崎宮」 

2013年8月2日金曜日

作用・反作用

長引いた仕事を終えた帰り道、とうに日は暮れて夜である、いつの間にか降ったらしい雨でアスファルトが濡れていた、風が無い上に雨が蒸発して空気が淀む、その大変な湿気に汗が腕にまで噴き出して不快なことこの上なし。

こんな日は冷房の効いた場所へ逃げ込むか早々に帰宅するかのどちらかを急ぐのみ、早くシャワーを浴びたくて寄り道は無しで帰宅することを選んだ。

自宅までもう少し・・・という某公園に差し掛かった時に聞こえてきたのは「イッキ! イッキ!」という何人かの若い声、今時まだそんなことをする輩がいるのかと歩きざまに見てみると・・・、まだ10代にしか見えぬ相当若い男女数名が同じ仲間であろう若い男を囃し立てている。

酒を飲んでいるふうではない、何の「イッキ!」だというのだ。

若い男がベンチに向かって体勢を整えているのが確認できる場所まで来た時に、そのベンチの上に角ばったペットボトルが置いてあるのが見えたのだ、男はその上に瓦割りのように右手を合わせていたのである。

もしや、あのペットボトルを空手チョップで潰そうというわけではなかろう・・・と思った瞬間(!)、満身の力を込めてその通りのことをやってしまった。

初めてペットボトルを目にする古代人ではなかろうに、その丈夫さくらいは知っているはず、もしや空とはいえキャップを閉めたままのペットボトルだったのだろうか、だとしたら相当頑丈で蹴飛ばそうが踏みつけようがちょっとやそっとでは潰れない。

若い男は悲鳴を上げ、胸元に右腕を抱えるように膝を付いて唸っている、肘か手首を傷めてしまったのだと思う。

「大丈夫!?」と声を掛ける仲間たち、・・・何を言っているのだ、大丈夫ではないからこそ腕を抱えてそこにうずくまって唸っているのだ。

あーあ、痛そうだ・・・、やっぱり酒も入っていたのかもしれない。

「若者よ、夏休みに浮かれてバカな真似はするな」。

若い男はニュートンの亡霊にそう叱られたも同然なのである。

2013年7月29日月曜日

プラネタリウム


隣合う季節へ暦を跨いだだけの短期間ながら、その間の生活をお世話になった福津市の、束の間のお隣さんらに挨拶を済ませた今日は正午あたりで弱い雨も降る実に蒸し暑い日だった。

母は先月他界したのだ。

とうに生活の場を福岡市へと戻していた私に遅れることおよそ1ヶ月半、母の四十九日を済ませてやっと姉と姪が帰ってきた、これから2人は博多の実家で、私は今まで通りその近くの賃貸マンションで以前と同じように毎日を送ることになる。

母を失って姉は精神的に参っている、思い出しては泣いてばかりなのだ、急に泣きだすのである、すっかり痩せてしまった、きっと独りにすると立ち直りは遅れるだろう、姪はそれに気付いているのだ、一緒に暮らして見守ってあげて欲しい。

福津市からの帰りは姪が運転する車で姉は道の駅へ、私は自分の軽自動車で近くのプラネタリウムへそれぞれ寄り道、夏休み中の親子連れで賑わう宗像ユリックス内のプラネタリウムです。

現在のプログラムは「土星の世界」、よく知られた五藤光学製のプラネタリウムとは違うカールツァイス製のコンパクトなシステム「スカイマスターZKP4」への興味も手伝って思った以上になめらかでシャープな投影を充分楽しんできた。

軽く触れられていた土星の衛星「タイタン」、死後の世界が、それを信じている姉の言う通りに存在するのであるなら、私は命を失えばそこへ瞬間移動でもしていろいろと見てみたいものです、二足歩行の奇妙な生き物がメタンの雨の下を歩いているかもしれぬではないか。

帰りは3号線を通らずに古賀市から的野、立花口を抜けて福岡市へ、途中の山や田畑に囲まれた長閑なあたりでは日の傾きと曇天の薄暗さのせいか早めにヒグラシが鳴いていた。

明瞭に聞こえる鳥の鳴き声はイソヒヨドリだろう、休憩で停めたコンビニの駐車場から青黒い体にオレンジの胸元の綺麗な鳥を探してみるも見つからず、だけど声は相変わらずすぐ近くから聞こえていたのだった。

じっとりとした空気、弱い風、走る車の窓から暑さが纏わりついてくる、首回りが汗ばんできたので降参して冷房に頼る。

自宅に戻ってシャワーでさっぱりし、冷たいものを飲みながらブログの更新、今日は特にたいしたことは何もしてないはずなのに、蒸し暑さのせいかなんだか疲れてしまった。

2013年4月2日火曜日

せ○○君だ!

前回見かけたのは・・・たしか4年か5年前にはなろうか、小学〜中学と同じ学校に通ったS君を見かけたのだった。

前回は横断歩道を渡るところを車の中からだったので声は掛けられず、今回は私を嫌う御父上と思しき年配のかたとご一緒されていたのでまたも声を掛けることはできなかった。

御父上は中学当時に野球部だったS君が地区大会のメンバーに選ばれなかったのを私が釣りに誘って部活動をサボらせたせいと思っていて「息子の邪魔をするな、お前は邪魔者だ」と言って怒っていた人なのだ。

・・・いや、それでも声は掛けようかと考えたのだけど、雰囲気的に邪魔をしてはいけない感じが漂っていたのだ。

特徴的な端がクルリと巻いたような眉毛と厚ぼったい二重、そしてモコモコした口元といった特徴は老けてしまっても変わらない、額や目尻にシワが入ろうが、こめかみに白髪が目立とうが一目でS君なのがすぐに分かる。

野球帽を被せたら「こまわり君」そっくりだったのだ、当時流行っていたし、似ているのでS君のことを「こまわり!」と呼ぶ上級生もいた。

そんなこまわり君もこちらを見さえすれば気がつくかもしれないが、ジッと斜め下を見つめていて微動だにしない、表情が暗いのである、楽しそうな感じがチラッとも漂ってこない、そんな場所で御父上と一体どれだけ深刻な会話をしているのだろうと考えてしまうほど。

注文したラテができあがるまで後ろ姿を見ていました、途中で御父上が短く2度ほど何かをS君に言いましたが、S君は相変わらずジッとしたまま。

ああ、御父上も老けてしまわれた、歳なりの「お年寄り」の顔なのだ、私を睨みつけてS君から遠ざけようとしていた気迫のあるお顔ではもう無い。

熱いラテを片手に昭和通りを東へ、那珂川を渡って実家に寄りました、郵便物を受け取るついでに中学時代の卒業アルバムを見てみる、S君は10代なりの顔で若い、僕も当然若い。

ふたりしてバカ話で大笑いし、ドキドキしながら隠れて吸ったタバコで目眩を起こして吐き気の後悔していたあの頃が懐かしい。

今や私もS君もすっかり老けてしまったけれど。

2013年2月2日土曜日

終の住処

「あの頃は雑魚がザルで20円だった、漁師の小遣い稼ぎになっていて、決まって夕方になるとリヤカーで売りに来ていた、買うほうも安くて新鮮な魚が買えるので助かっていた、食べきれない時もあったから近所の人と分けていたこともある。」

・・・これは母が口にする昭和40年代の昔話、実家周辺には都市高速や今のような大きくて高い建物など無かった頃の話。

軽い認知症の母がその当時の話をよく繰り返すようになった、その雑魚の話や、近所の奥さんたちと縁側で涼んだ夏など、楽しかった頃を愛でるように何度も話す。

そうかと思えば認知症の隙間から漏れてきた現実を浴びたかのように、ふと不安に襲われて真顔で天井を見つめる時もある、我が身を蝕む癌を思い悩んでいるのです。

母の癌は末期で、手術や放射線といった術を機会として既に失っている、奇跡的に効いていたホルモン療法も2年と少しを数える頃から効果が弱くなってしまった。

結果的に癌は確実に憎悪している。

今年に入り、医師から具体的な余命について告げられ、家族全員で何度も話し合った結果、母本人の希望通りに退院し、可能な限り通院しながら残された日々を過ごすという選択をした。

そしてまたもや母は懐かしそうに海風が吹く縁側を思い出しては在りし日の思い出を口にする、家事や育児、町内の雑用にさえ溌剌としていた母の記憶は幼かった僕の目を通しても記憶に残っていますから。

贅沢などできぬ倹しい暮らしであっただろうに、それでも穏やかな日々が女として、また母親としての幸せに満ち足りていた時期だったからこそ窓から見える晴れた空に気付いたり、吹き込む風に髪が震えたりする度に思い出しては目を細めて同じ事を口にするのだ。

残りの時間をその頃には戻せないけれど、高い建物に囲まれて薄暗くなってしまった実家から離れて海風の吹く明るい縁側のある場所へ住まいを移すことは可能だった。

実家はそのまま残して別に家を借りることにしたのである、最初は遠慮していた母も喜んでくれた。

場所は福津市、海にほど近い古い平屋の借家で、なお且つ車で2分ほどの場所に新しくお世話になる病院があるという環境、そこに母と姉と僕が住み、兄と姪や甥が可能な限り訪れてくれるようにという計画。

ただ、これは希望に胸を膨らませて始める新生活というものではない、母の終の住処なのである、それを思うと気が沈むが、何より己の短い余命を理解している母の事を思うのが辛い。

まずは必要最低限のものだけを移し終えました、来週からしばらくは福岡市の実家と仕事場、そして福津市の住まいと行き来することになる。