2011年5月11日水曜日

骨とボイジャー

先日の鹿児島旅行、フェリーで渡った桜島までのことを思い出していた。

船上から手摺にもたれて両腕を組んだような格好で眼下を眺める若い2人がいて、背後から見ているとこちらから向かって左の男が「あっ」と声をあげる、何かを落としてしまったらしく、そのことを隣にいたもうひとりの連れの男に言う。

その男は笑いながら「潜って取ってこい」と顎で海を指す、冗談めいたやりとりには全く緊迫感が無い、落し物はたいした物ではないのであろう。

何を落としたのかは分からぬが、持ち主の手から離れたそれはほどなく湾の底へ転がる。

かなり昔のこと、どこぞの国の豪華客船から海溝レベルの深いあたりで亡くなった夫の骨を散骨した未亡人がいたという話を聞いたことがある、細かく砕いた骨はかなり長い時間をかけてゆっくりゆっくり海底に沈むという。

海底に着けば誰の目にも留まらず、光さえ浴びず、激流に揉まれることもなく、ひっそりと時を刻むことになる、夫の遺言あっての行いらしい。

まるでボイジャーのようだ、NASAによる1号と2号の無人探査機のあれ。

たとえば1号、人類が作った物のうちで最も遠い場所にあるはずで、とうに海王星や冥王星を越えて外縁天体に入り、今なお毎秒約17kmの速さで飛び続けている、太陽も点のように小さくなった暗い宇宙空間を更に深く遠い彼方へと飛んで行く。

機械に意思などないけれど、骨が散骨を願う人の意思を借りて海底に沈んだように、探査機もまた宇宙を切り開こうとする人の意思を借りて気が遠くなるほど離れた場所へ飛び続ける。

さぞ心細いことだろう。

骨は火葬によって無機物へと化けて極限の水圧下で徐々に細かく崩壊し海底と同化する、ボイジャーは飛び続け、ついには太陽風の庇護から外れて過酷な空間に入り、ついに人類はその跡を追えずに宇宙空間と同化する。

これら2つはある意味似ていて、手の届かぬ遥か遠い所での存在を思うと切なさに似たものを覚えてしまう。

こうやってまとめの1行を書く間にも200kmほども遠ざかっているボイジャー1号、向かう先にはどんな世界が待っているのだろう、まことに果てしなき旅である。