2011年5月20日金曜日

激安スイカ


午前中にお世話になっているいつもの青果業者さんがやってきた、昨日の夕方に注文していた品の配達だった、新たな注文は毎日夕方にFAXでするのでこのタイミングではない。

仕事場で仕入れている野菜のほとんどは県内産で、残りは可能な限り九州産、葉物でも根菜でも、果物でも。

今日は特別に安いスイカがあるからどうですかと訊かれた、そこそこ大きな熊本県産で糖度はかなり高くて中心と外皮近くとの中間点で10度あるというからたいしたもの。

なにより安いのだ、1玉430円というので買わないわけがない、信頼のおける長い付き合いの業者さんなので事前に試食することなく店で使う分を3玉とパートさんらの希望者と私とで5玉、合計8玉を買いました。

この「安くて美味しい」というのがなによりの魅力。

ワケありなスイカらしい、どんなワケなのかと言えば「引き取り手のないスイカ」なのだと言う、引き取り手とはどういう人で、どんな経緯でその機会を失ったかなどについてはややこしそうなので訊かない。

食すのに適さぬ汚損品や、違法な品でないのであればそれで良し、全く問題は無い。

仕事場でお客に出す前に店で働く皆と少しだけ食べてみたのですがシャリ感もしっかりしていて実に甘かった、砂糖とは違うスイカの自然の甘さと香りの爽やかさは毎夏のことながら格別、きっと人工的には作り出せない組み合わせではなかろうか。

自宅では2玉のうち1玉を半分に割って冷蔵庫の中、残り1玉は明日実家に帰る時の土産用。

夏はビールだという人は多かろう、だが私はビールよりもスイカ、暑い外から帰ってきて食べるスイカの美味しさは言いようがないほど、どうしてこんなに美味しいのだろうと思ってしまう。

ちなみに、私はスイカを食べる時は先に外皮+白い部分と食する赤い部分の境に沿って包丁を滑らせて切り離してしまうのだ、そして適当な大きさに切って皿に盛る。

切り離された外皮は三日月型で残り、そのままごみとして捨ててしまう。

後は箸だろうがフォークだろうか食べるだけ、手や口元も汚れず食べやすいのだ。

2011年5月18日水曜日

どこを漂流しているのやら


昨日実家に寄ったばかりだが今日もまた置いてあるはずの古いコミック本を取りに行った、楳図かずおの「漂流教室」、全11巻セットなのだ。

友人との長電話で漫画の話になり、最近のものはさっぱりわからないが、昔は楳図かずおが好きだったという流れから何が面白かったかを訊かれて答えたのが「猫目小僧」と「漂流教室」。

小学生の頃に父が買ってくれた漂流教室は1巻どれも150円くらいで、「こんな気色の悪い漫画を読んで・・・」と一応はぶつぶつ言いながらも買ってくれたような記憶がある。

「怪奇ものが好きだなあ」と私のことを笑いつつも友人は名前くらいは知っているそれを読んでみたいというので漂流教室をしばらく貸すことになった、残念ながら猫目小僧は持っていない。

知人が持っているのなら私が借りて読みたいくらいだ(笑)。<「猫目小僧」

今日のうちに梱包して明日の昼過ぎにでも郵便局から送ろうと考えていたのだが・・・、おかしなことにあるはずの押入れの中に無いのである、全巻まとめてぴったりと納まる箱に入れて保管していたはずなのに。

押入れの奥まで探してみたけれど見つからない、姉が捨ててしまったのではないかと凍り付くような恐ろしいことを言う、6年前の地震の時の破損品や汚損品と一緒に捨ててしまったのではないのかと言うのだ(!)。

まさかそんなことはなかろうと思っていたが、どこを探しても見つからないのでだんだんとそんな気になってきた。

えええ・・・。

地震の時に捨てたものは落ちて破損してしまったCDやDVD、家電品、食器類、・・・押入れの中のコミック本は捨てないと思うのだが。

とにかくもう一度探さねば。


(追記)

結局見つからない・・・、これは隠し鬼の仕業なのか? なので添付の画像はネットからの拝借した。

関谷さま、どうかお許しを。

借りたがっていた友人には見つからないことを伝えてゴメンナサイ、ああ、どこへ行ったのだ、本当に捨ててしまったのか?>私

2011年5月17日火曜日

眩しそうに1人と1匹

仕事帰りに郵便物を受け取りに実家に寄った、時刻は午後6時を少し過ぎた頃、冬とは違って日没はあと1時間ほど経ってからで随分と遅くなった、薄暮でもない低いなりの直射日光で後頭部や背中がぼんやり温かい。

那珂川を渡ってもう少しで実家という地点で近所のおじいさんが白い雑種犬を連れて散歩しているのが見えた、こちらへ向かっている、すぐに私達はすれ違う距離、犬は「コー」という名の老犬である。

コーは今年に入ってすぐに後ろ足が立たなくなり病院に連れて行って診てもらったとそのおじいさんから聞いた、どこが悪かったのかはっきりしないまま春になるとまた歩き出したらしい、獣医は原因はよく分からないが年齢的なものもありそうなので次回同じような状態になると急激に衰えて危ないかもしれないと言われたらしい。

コーを連れたおじいさん、西の空を眺めて眩しそうにしている、オレンジのリードで繋がれたコーはほんの2歩分ほど先から立ち止まり、沈みつつある西陽に照らされているおじいさんを同じように眩しそうに振り返っている、どちらもトボトボとした足取りで、コーのほうが終始おじいさんよりほんの少しだけ先を歩いていた。

一体どちらが連れられているのかわからない。

おじいさんもコーも少し小さくなったように見える、肩幅が狭くなったような、背中が丸くなったような。

実家に着いて郵便物を受け取り、台所で母と少し話をし、再び表に出ればちょうど日没時の午後7時10分過ぎ、自宅へ戻る途中で先ほどのおじいさんのお宅の前を通るとコーを繋いでいたオレンジ色のリードが玄関先の適当な場所に二重の輪にして下げてあった。

コーは室内で飼われているのだ。

飼い主に似ておだやかな犬、吠えたところなど見たことがない、福岡市民体育館の駐輪場付近に捨てられていた子犬だったらしい、利口で大人しく成犬になっても初対面だろうが子供だろうが触られてもまばたきをしながらゆったりとしている犬なのだ。

犬だって歳を取る、最近は固いものは噛みにくそうにしているらしい、長生きしてほしいなと思う。

2011年5月11日水曜日

骨とボイジャー

先日の鹿児島旅行、フェリーで渡った桜島までのことを思い出していた。

船上から手摺にもたれて両腕を組んだような格好で眼下を眺める若い2人がいて、背後から見ているとこちらから向かって左の男が「あっ」と声をあげる、何かを落としてしまったらしく、そのことを隣にいたもうひとりの連れの男に言う。

その男は笑いながら「潜って取ってこい」と顎で海を指す、冗談めいたやりとりには全く緊迫感が無い、落し物はたいした物ではないのであろう。

何を落としたのかは分からぬが、持ち主の手から離れたそれはほどなく湾の底へ転がる。

かなり昔のこと、どこぞの国の豪華客船から海溝レベルの深いあたりで亡くなった夫の骨を散骨した未亡人がいたという話を聞いたことがある、細かく砕いた骨はかなり長い時間をかけてゆっくりゆっくり海底に沈むという。

海底に着けば誰の目にも留まらず、光さえ浴びず、激流に揉まれることもなく、ひっそりと時を刻むことになる、夫の遺言あっての行いらしい。

まるでボイジャーのようだ、NASAによる1号と2号の無人探査機のあれ。

たとえば1号、人類が作った物のうちで最も遠い場所にあるはずで、とうに海王星や冥王星を越えて外縁天体に入り、今なお毎秒約17kmの速さで飛び続けている、太陽も点のように小さくなった暗い宇宙空間を更に深く遠い彼方へと飛んで行く。

機械に意思などないけれど、骨が散骨を願う人の意思を借りて海底に沈んだように、探査機もまた宇宙を切り開こうとする人の意思を借りて気が遠くなるほど離れた場所へ飛び続ける。

さぞ心細いことだろう。

骨は火葬によって無機物へと化けて極限の水圧下で徐々に細かく崩壊し海底と同化する、ボイジャーは飛び続け、ついには太陽風の庇護から外れて過酷な空間に入り、ついに人類はその跡を追えずに宇宙空間と同化する。

これら2つはある意味似ていて、手の届かぬ遥か遠い所での存在を思うと切なさに似たものを覚えてしまう。

こうやってまとめの1行を書く間にも200kmほども遠ざかっているボイジャー1号、向かう先にはどんな世界が待っているのだろう、まことに果てしなき旅である。