昨年の8月某日、夜に出掛けた自宅近所に自転車を停めていた数時間の内に、何者かに虫ゴムを外されてタイヤの空気を抜かれるというイタズラをされたことがある。
徒歩で帰宅するにはゆっくりの速度で20分弱、ズルズルと音をたてる後輪を時折持ち上げながら帰った夜だった。
私はその出来事を4人の友人に話したのだった、Aは「今度はもっと別なとこに停めなきゃ」と言い、Bは「そんなこともあるよ」と言った、Cは「どうしてそんなことするのかね」と顔をしかめ、Dは「俺もやられたことある」とその時のことを話してくれた。
それら4人は、私がそこへ出掛けた際に自転車をどこに停めるのかを知っている。
そして今日の昼過ぎ、所用で出掛けた県庁近くで1時間ほどの空き時間にラテを飲みながら一緒に過ごした友人と、お互いの親兄弟のことでしんみりとした話が過ぎようかとしたあたりで、向かい側に座る友人が唐突に「去年あの自転車の空気抜いたのは俺」と、明かすのでした。
それまでの話の流れとはまるで関係なしに。
告白したのは「友人B」なのである、「目が点になる」という使い古された言い回しがあるけれど、その時がまさにそう。
「ごめん」と謝り、続けて「俺ね」と理由を述べ始めようとしたので「もういいから」と遮った、今まで言い出しにくかった事を、やっとの思いで告白した相手の気持ちを気遣ったから・・・などではない。
今更知ってもという考えがあった上に、理由を知れば何か思い悩みそうな気がして、聞かぬほうが良いのだという咄嗟の判断から。
実はそんな行為に及んだ友人Bの、その時点の心情について推するところがあったりもする、だから、余計に聞かぬほうが良い、何故今思い切って明かしたのかは解らない。
それまでと変わりなくあの8月以降も誘い誘われ食事や飲みに行動を共にしていた友人B、いつも通りに笑って話してはいたけれど、内心バカなことをしたものだと時々はチクチクと痛い思いをしていたのではなかろうか、そんな仕業を知ったこちらも同じ程には痛いのだけれど。
些細な傷のくせに沁みるように何日も痛かった錆釘での傷みたく。
まだ存分に若かったある日、立秋を過ぎてもなお暑かった日の浜辺を音楽を聴きながら歩いていて木目のきれいな板切れを拾い上げたことがある、が、裏に釘が出ていて人差し指の側面を傷付けてしまった、真新しく表面が平滑な釘ではなく、潮に晒された赤錆色のそれで。
友人Bの告白とてその傷のようにすぐに滲んで褪せてしまうのだけれど、しばらくは痕だけが微かに残りそうで、見える内はその度に何か思いそうなのが少しばかり複雑ではある。