2013年2月2日土曜日

終の住処

「あの頃は雑魚がザルで20円だった、漁師の小遣い稼ぎになっていて、決まって夕方になるとリヤカーで売りに来ていた、買うほうも安くて新鮮な魚が買えるので助かっていた、食べきれない時もあったから近所の人と分けていたこともある。」

・・・これは母が口にする昭和40年代の昔話、実家周辺には都市高速や今のような大きくて高い建物など無かった頃の話。

軽い認知症の母がその当時の話をよく繰り返すようになった、その雑魚の話や、近所の奥さんたちと縁側で涼んだ夏など、楽しかった頃を愛でるように何度も話す。

そうかと思えば認知症の隙間から漏れてきた現実を浴びたかのように、ふと不安に襲われて真顔で天井を見つめる時もある、我が身を蝕む癌を思い悩んでいるのです。

母の癌は末期で、手術や放射線といった術を機会として既に失っている、奇跡的に効いていたホルモン療法も2年と少しを数える頃から効果が弱くなってしまった。

結果的に癌は確実に憎悪している。

今年に入り、医師から具体的な余命について告げられ、家族全員で何度も話し合った結果、母本人の希望通りに退院し、可能な限り通院しながら残された日々を過ごすという選択をした。

そしてまたもや母は懐かしそうに海風が吹く縁側を思い出しては在りし日の思い出を口にする、家事や育児、町内の雑用にさえ溌剌としていた母の記憶は幼かった僕の目を通しても記憶に残っていますから。

贅沢などできぬ倹しい暮らしであっただろうに、それでも穏やかな日々が女として、また母親としての幸せに満ち足りていた時期だったからこそ窓から見える晴れた空に気付いたり、吹き込む風に髪が震えたりする度に思い出しては目を細めて同じ事を口にするのだ。

残りの時間をその頃には戻せないけれど、高い建物に囲まれて薄暗くなってしまった実家から離れて海風の吹く明るい縁側のある場所へ住まいを移すことは可能だった。

実家はそのまま残して別に家を借りることにしたのである、最初は遠慮していた母も喜んでくれた。

場所は福津市、海にほど近い古い平屋の借家で、なお且つ車で2分ほどの場所に新しくお世話になる病院があるという環境、そこに母と姉と僕が住み、兄と姪や甥が可能な限り訪れてくれるようにという計画。

ただ、これは希望に胸を膨らませて始める新生活というものではない、母の終の住処なのである、それを思うと気が沈むが、何より己の短い余命を理解している母の事を思うのが辛い。

まずは必要最低限のものだけを移し終えました、来週からしばらくは福岡市の実家と仕事場、そして福津市の住まいと行き来することになる。