今年は行くのかと訊かれカレンダーをめくって確かめてみる、行くなら一緒にどうだとも誘ってくれた、月日の流れは早いなと今年何度目かで同じように繰り返しそう思う。
訊かれたのは来月の放生会、こちらでは「ほうじょうえ」ではなく「ほうじょうや」と言う。
博多三大祭の締めくくりは東区の筥崎宮で来月12日から18日、どうせ行くのなら昼間よりも灯りがきれいな夜がいいと誘ってくれた友人は言う。
・・・はい、私も夜のほうがいい、灯りのある露店が並ぶのはきれいというよりは独特の楽しさがあるし、きっと昼間よりは幾分涼しいだろう、できれば行くなら人が少なめな平日で。
夜の露店は楽しい、そこで売られている品々はどれもB級で安っぽい品ばかり、やや割高感もあるものの、お祭りに限って言えば実のところあまりマイナスに考えたことはないだ、私はきっと祭りの雰囲気を楽しんでいるのだと思う。
昼間は今でもお化け屋敷のようなものはあるのだろうか、子供の頃にはまさに子供だましな「ヘビ女」が居て見物料(確か300円だった)は詐欺だと憤慨したものだが今となっては笑える遠い思い出になっている。
なにせ、サーッと幕が開くと上半身は肌色の下着のようなもの、そして下半身は「鯉のぼり」のようなものを腰から下で穿いて(?)いるおばさんが横座りしてこちらを睨み回しているのだった、ほんの2分くらいそんな具合で「ヘビ女」は終わり。
「なんだあれは」・・・テント内は失笑の渦、ほら、怒りたくもなるではないか(笑)。
実家近くの今の住まいへ引っ越して来る前は、その筥崎宮の参道に近い場所に住んでいました、普段は静かな場所なのだが放生会期間中は喧騒の日々となる。
あまりに近すぎると行きたいとは思わず、周辺道路の渋滞にうんざりしていたのですが、少しでも離れた今では不思議と行ってみたいなと思う。
9月に入れば少しくらいは涼しくなっているだろうか、天気の良さそうな日を選んで地下鉄で行ってみようか。
リンク:「筥崎宮」
2013年8月2日金曜日
作用・反作用
長引いた仕事を終えた帰り道、とうに日は暮れて夜である、いつの間にか降ったらしい雨でアスファルトが濡れていた、風が無い上に雨が蒸発して空気が淀む、その大変な湿気に汗が腕にまで噴き出して不快なことこの上なし。
こんな日は冷房の効いた場所へ逃げ込むか早々に帰宅するかのどちらかを急ぐのみ、早くシャワーを浴びたくて寄り道は無しで帰宅することを選んだ。
自宅までもう少し・・・という某公園に差し掛かった時に聞こえてきたのは「イッキ! イッキ!」という何人かの若い声、今時まだそんなことをする輩がいるのかと歩きざまに見てみると・・・、まだ10代にしか見えぬ相当若い男女数名が同じ仲間であろう若い男を囃し立てている。
酒を飲んでいるふうではない、何の「イッキ!」だというのだ。
若い男がベンチに向かって体勢を整えているのが確認できる場所まで来た時に、そのベンチの上に角ばったペットボトルが置いてあるのが見えたのだ、男はその上に瓦割りのように右手を合わせていたのである。
もしや、あのペットボトルを空手チョップで潰そうというわけではなかろう・・・と思った瞬間(!)、満身の力を込めてその通りのことをやってしまった。
初めてペットボトルを目にする古代人ではなかろうに、その丈夫さくらいは知っているはず、もしや空とはいえキャップを閉めたままのペットボトルだったのだろうか、だとしたら相当頑丈で蹴飛ばそうが踏みつけようがちょっとやそっとでは潰れない。
若い男は悲鳴を上げ、胸元に右腕を抱えるように膝を付いて唸っている、肘か手首を傷めてしまったのだと思う。
「大丈夫!?」と声を掛ける仲間たち、・・・何を言っているのだ、大丈夫ではないからこそ腕を抱えてそこにうずくまって唸っているのだ。
あーあ、痛そうだ・・・、やっぱり酒も入っていたのかもしれない。
「若者よ、夏休みに浮かれてバカな真似はするな」。
若い男はニュートンの亡霊にそう叱られたも同然なのである。
こんな日は冷房の効いた場所へ逃げ込むか早々に帰宅するかのどちらかを急ぐのみ、早くシャワーを浴びたくて寄り道は無しで帰宅することを選んだ。
自宅までもう少し・・・という某公園に差し掛かった時に聞こえてきたのは「イッキ! イッキ!」という何人かの若い声、今時まだそんなことをする輩がいるのかと歩きざまに見てみると・・・、まだ10代にしか見えぬ相当若い男女数名が同じ仲間であろう若い男を囃し立てている。
酒を飲んでいるふうではない、何の「イッキ!」だというのだ。
若い男がベンチに向かって体勢を整えているのが確認できる場所まで来た時に、そのベンチの上に角ばったペットボトルが置いてあるのが見えたのだ、男はその上に瓦割りのように右手を合わせていたのである。
もしや、あのペットボトルを空手チョップで潰そうというわけではなかろう・・・と思った瞬間(!)、満身の力を込めてその通りのことをやってしまった。
初めてペットボトルを目にする古代人ではなかろうに、その丈夫さくらいは知っているはず、もしや空とはいえキャップを閉めたままのペットボトルだったのだろうか、だとしたら相当頑丈で蹴飛ばそうが踏みつけようがちょっとやそっとでは潰れない。
若い男は悲鳴を上げ、胸元に右腕を抱えるように膝を付いて唸っている、肘か手首を傷めてしまったのだと思う。
「大丈夫!?」と声を掛ける仲間たち、・・・何を言っているのだ、大丈夫ではないからこそ腕を抱えてそこにうずくまって唸っているのだ。
あーあ、痛そうだ・・・、やっぱり酒も入っていたのかもしれない。
「若者よ、夏休みに浮かれてバカな真似はするな」。
若い男はニュートンの亡霊にそう叱られたも同然なのである。
2013年7月29日月曜日
プラネタリウム
隣合う季節へ暦を跨いだだけの短期間ながら、その間の生活をお世話になった福津市の、束の間のお隣さんらに挨拶を済ませた今日は正午あたりで弱い雨も降る実に蒸し暑い日だった。
母は先月他界したのだ。
とうに生活の場を福岡市へと戻していた私に遅れることおよそ1ヶ月半、母の四十九日を済ませてやっと姉と姪が帰ってきた、これから2人は博多の実家で、私は今まで通りその近くの賃貸マンションで以前と同じように毎日を送ることになる。
母を失って姉は精神的に参っている、思い出しては泣いてばかりなのだ、急に泣きだすのである、すっかり痩せてしまった、きっと独りにすると立ち直りは遅れるだろう、姪はそれに気付いているのだ、一緒に暮らして見守ってあげて欲しい。
福津市からの帰りは姪が運転する車で姉は道の駅へ、私は自分の軽自動車で近くのプラネタリウムへそれぞれ寄り道、夏休み中の親子連れで賑わう宗像ユリックス内のプラネタリウムです。
現在のプログラムは「土星の世界」、よく知られた五藤光学製のプラネタリウムとは違うカールツァイス製のコンパクトなシステム「スカイマスターZKP4」への興味も手伝って思った以上になめらかでシャープな投影を充分楽しんできた。
軽く触れられていた土星の衛星「タイタン」、死後の世界が、それを信じている姉の言う通りに存在するのであるなら、私は命を失えばそこへ瞬間移動でもしていろいろと見てみたいものです、二足歩行の奇妙な生き物がメタンの雨の下を歩いているかもしれぬではないか。
帰りは3号線を通らずに古賀市から的野、立花口を抜けて福岡市へ、途中の山や田畑に囲まれた長閑なあたりでは日の傾きと曇天の薄暗さのせいか早めにヒグラシが鳴いていた。
明瞭に聞こえる鳥の鳴き声はイソヒヨドリだろう、休憩で停めたコンビニの駐車場から青黒い体にオレンジの胸元の綺麗な鳥を探してみるも見つからず、だけど声は相変わらずすぐ近くから聞こえていたのだった。
じっとりとした空気、弱い風、走る車の窓から暑さが纏わりついてくる、首回りが汗ばんできたので降参して冷房に頼る。
自宅に戻ってシャワーでさっぱりし、冷たいものを飲みながらブログの更新、今日は特にたいしたことは何もしてないはずなのに、蒸し暑さのせいかなんだか疲れてしまった。
2013年4月2日火曜日
せ○○君だ!
前回見かけたのは・・・たしか4年か5年前にはなろうか、小学〜中学と同じ学校に通ったS君を見かけたのだった。
前回は横断歩道を渡るところを車の中からだったので声は掛けられず、今回は私を嫌う御父上と思しき年配のかたとご一緒されていたのでまたも声を掛けることはできなかった。
御父上は中学当時に野球部だったS君が地区大会のメンバーに選ばれなかったのを私が釣りに誘って部活動をサボらせたせいと思っていて「息子の邪魔をするな、お前は邪魔者だ」と言って怒っていた人なのだ。
・・・いや、それでも声は掛けようかと考えたのだけど、雰囲気的に邪魔をしてはいけない感じが漂っていたのだ。
特徴的な端がクルリと巻いたような眉毛と厚ぼったい二重、そしてモコモコした口元といった特徴は老けてしまっても変わらない、額や目尻にシワが入ろうが、こめかみに白髪が目立とうが一目でS君なのがすぐに分かる。
野球帽を被せたら「こまわり君」そっくりだったのだ、当時流行っていたし、似ているのでS君のことを「こまわり!」と呼ぶ上級生もいた。
そんなこまわり君もこちらを見さえすれば気がつくかもしれないが、ジッと斜め下を見つめていて微動だにしない、表情が暗いのである、楽しそうな感じがチラッとも漂ってこない、そんな場所で御父上と一体どれだけ深刻な会話をしているのだろうと考えてしまうほど。
注文したラテができあがるまで後ろ姿を見ていました、途中で御父上が短く2度ほど何かをS君に言いましたが、S君は相変わらずジッとしたまま。
ああ、御父上も老けてしまわれた、歳なりの「お年寄り」の顔なのだ、私を睨みつけてS君から遠ざけようとしていた気迫のあるお顔ではもう無い。
熱いラテを片手に昭和通りを東へ、那珂川を渡って実家に寄りました、郵便物を受け取るついでに中学時代の卒業アルバムを見てみる、S君は10代なりの顔で若い、僕も当然若い。
ふたりしてバカ話で大笑いし、ドキドキしながら隠れて吸ったタバコで目眩を起こして吐き気の後悔していたあの頃が懐かしい。
今や私もS君もすっかり老けてしまったけれど。
前回は横断歩道を渡るところを車の中からだったので声は掛けられず、今回は私を嫌う御父上と思しき年配のかたとご一緒されていたのでまたも声を掛けることはできなかった。
御父上は中学当時に野球部だったS君が地区大会のメンバーに選ばれなかったのを私が釣りに誘って部活動をサボらせたせいと思っていて「息子の邪魔をするな、お前は邪魔者だ」と言って怒っていた人なのだ。
・・・いや、それでも声は掛けようかと考えたのだけど、雰囲気的に邪魔をしてはいけない感じが漂っていたのだ。
特徴的な端がクルリと巻いたような眉毛と厚ぼったい二重、そしてモコモコした口元といった特徴は老けてしまっても変わらない、額や目尻にシワが入ろうが、こめかみに白髪が目立とうが一目でS君なのがすぐに分かる。
野球帽を被せたら「こまわり君」そっくりだったのだ、当時流行っていたし、似ているのでS君のことを「こまわり!」と呼ぶ上級生もいた。
そんなこまわり君もこちらを見さえすれば気がつくかもしれないが、ジッと斜め下を見つめていて微動だにしない、表情が暗いのである、楽しそうな感じがチラッとも漂ってこない、そんな場所で御父上と一体どれだけ深刻な会話をしているのだろうと考えてしまうほど。
注文したラテができあがるまで後ろ姿を見ていました、途中で御父上が短く2度ほど何かをS君に言いましたが、S君は相変わらずジッとしたまま。
ああ、御父上も老けてしまわれた、歳なりの「お年寄り」の顔なのだ、私を睨みつけてS君から遠ざけようとしていた気迫のあるお顔ではもう無い。
熱いラテを片手に昭和通りを東へ、那珂川を渡って実家に寄りました、郵便物を受け取るついでに中学時代の卒業アルバムを見てみる、S君は10代なりの顔で若い、僕も当然若い。
ふたりしてバカ話で大笑いし、ドキドキしながら隠れて吸ったタバコで目眩を起こして吐き気の後悔していたあの頃が懐かしい。
今や私もS君もすっかり老けてしまったけれど。
2013年2月2日土曜日
終の住処
「あの頃は雑魚がザルで20円だった、漁師の小遣い稼ぎになっていて、決まって夕方になるとリヤカーで売りに来ていた、買うほうも安くて新鮮な魚が買えるので助かっていた、食べきれない時もあったから近所の人と分けていたこともある。」
・・・これは母が口にする昭和40年代の昔話、実家周辺には都市高速や今のような大きくて高い建物など無かった頃の話。
軽い認知症の母がその当時の話をよく繰り返すようになった、その雑魚の話や、近所の奥さんたちと縁側で涼んだ夏など、楽しかった頃を愛でるように何度も話す。
そうかと思えば認知症の隙間から漏れてきた現実を浴びたかのように、ふと不安に襲われて真顔で天井を見つめる時もある、我が身を蝕む癌を思い悩んでいるのです。
母の癌は末期で、手術や放射線といった術を機会として既に失っている、奇跡的に効いていたホルモン療法も2年と少しを数える頃から効果が弱くなってしまった。
結果的に癌は確実に憎悪している。
今年に入り、医師から具体的な余命について告げられ、家族全員で何度も話し合った結果、母本人の希望通りに退院し、可能な限り通院しながら残された日々を過ごすという選択をした。
そしてまたもや母は懐かしそうに海風が吹く縁側を思い出しては在りし日の思い出を口にする、家事や育児、町内の雑用にさえ溌剌としていた母の記憶は幼かった僕の目を通しても記憶に残っていますから。
贅沢などできぬ倹しい暮らしであっただろうに、それでも穏やかな日々が女として、また母親としての幸せに満ち足りていた時期だったからこそ窓から見える晴れた空に気付いたり、吹き込む風に髪が震えたりする度に思い出しては目を細めて同じ事を口にするのだ。
残りの時間をその頃には戻せないけれど、高い建物に囲まれて薄暗くなってしまった実家から離れて海風の吹く明るい縁側のある場所へ住まいを移すことは可能だった。
実家はそのまま残して別に家を借りることにしたのである、最初は遠慮していた母も喜んでくれた。
場所は福津市、海にほど近い古い平屋の借家で、なお且つ車で2分ほどの場所に新しくお世話になる病院があるという環境、そこに母と姉と僕が住み、兄と姪や甥が可能な限り訪れてくれるようにという計画。
ただ、これは希望に胸を膨らませて始める新生活というものではない、母の終の住処なのである、それを思うと気が沈むが、何より己の短い余命を理解している母の事を思うのが辛い。
まずは必要最低限のものだけを移し終えました、来週からしばらくは福岡市の実家と仕事場、そして福津市の住まいと行き来することになる。
・・・これは母が口にする昭和40年代の昔話、実家周辺には都市高速や今のような大きくて高い建物など無かった頃の話。
軽い認知症の母がその当時の話をよく繰り返すようになった、その雑魚の話や、近所の奥さんたちと縁側で涼んだ夏など、楽しかった頃を愛でるように何度も話す。
そうかと思えば認知症の隙間から漏れてきた現実を浴びたかのように、ふと不安に襲われて真顔で天井を見つめる時もある、我が身を蝕む癌を思い悩んでいるのです。
母の癌は末期で、手術や放射線といった術を機会として既に失っている、奇跡的に効いていたホルモン療法も2年と少しを数える頃から効果が弱くなってしまった。
結果的に癌は確実に憎悪している。
今年に入り、医師から具体的な余命について告げられ、家族全員で何度も話し合った結果、母本人の希望通りに退院し、可能な限り通院しながら残された日々を過ごすという選択をした。
そしてまたもや母は懐かしそうに海風が吹く縁側を思い出しては在りし日の思い出を口にする、家事や育児、町内の雑用にさえ溌剌としていた母の記憶は幼かった僕の目を通しても記憶に残っていますから。
贅沢などできぬ倹しい暮らしであっただろうに、それでも穏やかな日々が女として、また母親としての幸せに満ち足りていた時期だったからこそ窓から見える晴れた空に気付いたり、吹き込む風に髪が震えたりする度に思い出しては目を細めて同じ事を口にするのだ。
残りの時間をその頃には戻せないけれど、高い建物に囲まれて薄暗くなってしまった実家から離れて海風の吹く明るい縁側のある場所へ住まいを移すことは可能だった。
実家はそのまま残して別に家を借りることにしたのである、最初は遠慮していた母も喜んでくれた。
場所は福津市、海にほど近い古い平屋の借家で、なお且つ車で2分ほどの場所に新しくお世話になる病院があるという環境、そこに母と姉と僕が住み、兄と姪や甥が可能な限り訪れてくれるようにという計画。
ただ、これは希望に胸を膨らませて始める新生活というものではない、母の終の住処なのである、それを思うと気が沈むが、何より己の短い余命を理解している母の事を思うのが辛い。
まずは必要最低限のものだけを移し終えました、来週からしばらくは福岡市の実家と仕事場、そして福津市の住まいと行き来することになる。
登録:
投稿 (Atom)
