「あの頃は雑魚がザルで20円だった、漁師の小遣い稼ぎになっていて、決まって夕方になるとリヤカーで売りに来ていた、買うほうも安くて新鮮な魚が買えるので助かっていた、食べきれない時もあったから近所の人と分けていたこともある。」
・・・これは母が口にする昭和40年代の昔話、実家周辺には都市高速や今のような大きくて高い建物など無かった頃の話。
軽い認知症の母がその当時の話をよく繰り返すようになった、その雑魚の話や、近所の奥さんたちと縁側で涼んだ夏など、楽しかった頃を愛でるように何度も話す。
そうかと思えば認知症の隙間から漏れてきた現実を浴びたかのように、ふと不安に襲われて真顔で天井を見つめる時もある、我が身を蝕む癌を思い悩んでいるのです。
母の癌は末期で、手術や放射線といった術を機会として既に失っている、奇跡的に効いていたホルモン療法も2年と少しを数える頃から効果が弱くなってしまった。
結果的に癌は確実に憎悪している。
今年に入り、医師から具体的な余命について告げられ、家族全員で何度も話し合った結果、母本人の希望通りに退院し、可能な限り通院しながら残された日々を過ごすという選択をした。
そしてまたもや母は懐かしそうに海風が吹く縁側を思い出しては在りし日の思い出を口にする、家事や育児、町内の雑用にさえ溌剌としていた母の記憶は幼かった僕の目を通しても記憶に残っていますから。
贅沢などできぬ倹しい暮らしであっただろうに、それでも穏やかな日々が女として、また母親としての幸せに満ち足りていた時期だったからこそ窓から見える晴れた空に気付いたり、吹き込む風に髪が震えたりする度に思い出しては目を細めて同じ事を口にするのだ。
残りの時間をその頃には戻せないけれど、高い建物に囲まれて薄暗くなってしまった実家から離れて海風の吹く明るい縁側のある場所へ住まいを移すことは可能だった。
実家はそのまま残して別に家を借りることにしたのである、最初は遠慮していた母も喜んでくれた。
場所は福津市、海にほど近い古い平屋の借家で、なお且つ車で2分ほどの場所に新しくお世話になる病院があるという環境、そこに母と姉と僕が住み、兄と姪や甥が可能な限り訪れてくれるようにという計画。
ただ、これは希望に胸を膨らませて始める新生活というものではない、母の終の住処なのである、それを思うと気が沈むが、何より己の短い余命を理解している母の事を思うのが辛い。
まずは必要最低限のものだけを移し終えました、来週からしばらくは福岡市の実家と仕事場、そして福津市の住まいと行き来することになる。
2012年12月2日日曜日
ホームクリーニング
プロによる自宅内の徹底清掃のことではなく、普段ならクリーニング店へ持ち込みそうな衣類を自宅で洗うという庶民派なそちらのほう。
洗ったものはダウンジャケット、着用シーズンに入ったばかりでもう洗ってしまうのは、霜が降りた数日前の早朝に仕事場の表の掃除の際に水で薄めた液体クレンザーをうっかりかけてしまったからだ。
洗ったものはダウンジャケット、着用シーズンに入ったばかりでもう洗ってしまうのは、霜が降りた数日前の早朝に仕事場の表の掃除の際に水で薄めた液体クレンザーをうっかりかけてしまったからだ。
2012年10月17日水曜日
錯視
面白いサイトを発見、そこの説明通りの見え方で画像が揺れる、静止画の筈なのに回転したり、うねって見えたりで面白い。
リンク先の「北岡明佳の錯視のページ」で紹介されている錯視はどれも大変良くできていて、そのページの下のほうには「本ホームページ内のページ一覧」として他の錯視が数多く紹介されています、興味があればスマホからではなく画面の大きなPCでどうぞ。
まずはいきなりトップページから驚かされる、なぜジワジワと回転しているように見えるのだろう、いろいろ調べてみてもピンとこない、人なら誰でも同じように見えるのだろうか?
他には、たとえば「視覚的補完の錯視」→「消失現象いろいろ」→「あさがお」は見て数秒後には他の黄色のドットがほとんど感知できなくなってしまった、別のポイントを見た時だけ周囲に一瞬見えるというのに。
ああ、やっぱり点は1つしか目で追えない、どうなっているのだ??
人の脳のせいなのか、目の構造?のせいなのか、こんなシンプルな図柄に不思議な錯覚を起こそうなどとは・・・。
今はもう無くなっているが、長崎のハウステンボスには「ミステリアスエッシャー」というアトラクションがあった、仕組みも解説されていて頭では理解しているのに何度通っても平衡感覚がおかしくなってよろめいてしまう通路があったのを思い出す。
人間ならではの錯覚なのだろうか、猫や犬ではどうだろう。
そんな人間の錯覚を気付き、画家の領域の作品へと転化してしまうマウリッツ・エッシャーをはじめとするいろんな方々の着眼点や観察力には本当に感服する、凡人では気が付かないし、仮に気が付いても詳しくは探求しないであろう。
そういう私も惑わされてばかりの凡人なのだ。
リンク先についての話に戻すと、ページの冒頭付近には「車酔いなどを起こしやすい方はご注意下さい」という注意書き、リンク先を御覧になる場合は一応ご注意を。
なお、そこでの各画像(データ)はフリー素材ではない、この点もご注意を。
リンク先の「北岡明佳の錯視のページ」で紹介されている錯視はどれも大変良くできていて、そのページの下のほうには「本ホームページ内のページ一覧」として他の錯視が数多く紹介されています、興味があればスマホからではなく画面の大きなPCでどうぞ。
まずはいきなりトップページから驚かされる、なぜジワジワと回転しているように見えるのだろう、いろいろ調べてみてもピンとこない、人なら誰でも同じように見えるのだろうか?
他には、たとえば「視覚的補完の錯視」→「消失現象いろいろ」→「あさがお」は見て数秒後には他の黄色のドットがほとんど感知できなくなってしまった、別のポイントを見た時だけ周囲に一瞬見えるというのに。
ああ、やっぱり点は1つしか目で追えない、どうなっているのだ??
人の脳のせいなのか、目の構造?のせいなのか、こんなシンプルな図柄に不思議な錯覚を起こそうなどとは・・・。
今はもう無くなっているが、長崎のハウステンボスには「ミステリアスエッシャー」というアトラクションがあった、仕組みも解説されていて頭では理解しているのに何度通っても平衡感覚がおかしくなってよろめいてしまう通路があったのを思い出す。
人間ならではの錯覚なのだろうか、猫や犬ではどうだろう。
そんな人間の錯覚を気付き、画家の領域の作品へと転化してしまうマウリッツ・エッシャーをはじめとするいろんな方々の着眼点や観察力には本当に感服する、凡人では気が付かないし、仮に気が付いても詳しくは探求しないであろう。
そういう私も惑わされてばかりの凡人なのだ。
リンク先についての話に戻すと、ページの冒頭付近には「車酔いなどを起こしやすい方はご注意下さい」という注意書き、リンク先を御覧になる場合は一応ご注意を。
なお、そこでの各画像(データ)はフリー素材ではない、この点もご注意を。
2012年9月30日日曜日
無言の”こんにちは”
しっかりとした雨脚の日曜日、それでも地下を通れば濡れずにあちこち移動可能な天神へと正午前から地下鉄で出掛けた、目的は毎年秋の恒例イベントとなった「ミュージックシティ天神」、その2日目なのである。
あちこちでいろんな演目を楽しめるけれど、今日の私のお目当ては大丸福岡天神店のパサージュ広場、ここなら雨でも大丈夫で、しかもジャズの生演奏ばかりなのが楽しみ。
あちこちでいろんな演目を楽しめるけれど、今日の私のお目当ては大丸福岡天神店のパサージュ広場、ここなら雨でも大丈夫で、しかもジャズの生演奏ばかりなのが楽しみ。
2012年9月4日火曜日
おくりびと
私はmixiも利用している。
一時期ほどの勢いはもうないけれど、それでも相当数の会員数を抱えるSNSともなるとまさにひとつの社会のようなもの、年代も社会や生活の環境も人さまざま、笑っている人もいれば泣いている人もいる。
多様な人が同時に存在していて個々と諸々が寄り集まってのひとつの社会。
さて、その中を歩いていると思いがけぬ人に辿り着いてしまうことがあるのだ、例えば同じハンドルの人であったり、趣味が同じであったり、昔親しかった人だったりと。
ですが時に今日のような残念な場合もある、既に他界されたかただったのだ。
トップ画像ではそれまでと同じように笑顔のままだというのに、友人からの紹介文や最後の日記には途中から惜別の言葉が並ぶのは何れの人も同じ、読み進むにつれ寂しく切なくなってくる、マイミクシィとして繋がりのあった人たちの中にはリアルでの付き合いを持っていたというのも少なくないはず。
仮に、突然の出来事にmixiの退会手続きなどとれぬ事態が我が身に起こったとすれば、もうこの世に残したものなど何も心配することなどできぬとは言え、個人的にはmixi上に引き止められたままのような状態ではなく、是非ともなるべく早く”私”を退会させて眠らせてくれぬものかと・・・。
ずっと繋がっていたいかたの気持ちはよく分かるが、私の場合ならきっと退会を願う。
mixiの退会は本人の手続きによるのがmixiの決まりなのでどうすることもできないけれど、もし私が急逝し、自分ではどうにもできなくなったら・・・他にも方法で私を葬って欲しいのだ。
それはマイミクシィさんが1人もいなくなった場合、ある一定の期間を経て自動的に退会となってしまうという仕組みを使うのである、それもまたmixiの決まりなのだ。
具体的にはマイミクシィとして繋がっている皆が私との繋がりを解除して欲しいのである、私のマイミクシィがゼロになれば、後日私はmixiを退会となり眠ることができる。
こんな寂しいことを書いてしまったのはトップ画像の笑みと亡くなられた現実の落差に背を押されてのこと、暗い投稿で申し訳ない。
一時期ほどの勢いはもうないけれど、それでも相当数の会員数を抱えるSNSともなるとまさにひとつの社会のようなもの、年代も社会や生活の環境も人さまざま、笑っている人もいれば泣いている人もいる。
多様な人が同時に存在していて個々と諸々が寄り集まってのひとつの社会。
さて、その中を歩いていると思いがけぬ人に辿り着いてしまうことがあるのだ、例えば同じハンドルの人であったり、趣味が同じであったり、昔親しかった人だったりと。
ですが時に今日のような残念な場合もある、既に他界されたかただったのだ。
トップ画像ではそれまでと同じように笑顔のままだというのに、友人からの紹介文や最後の日記には途中から惜別の言葉が並ぶのは何れの人も同じ、読み進むにつれ寂しく切なくなってくる、マイミクシィとして繋がりのあった人たちの中にはリアルでの付き合いを持っていたというのも少なくないはず。
仮に、突然の出来事にmixiの退会手続きなどとれぬ事態が我が身に起こったとすれば、もうこの世に残したものなど何も心配することなどできぬとは言え、個人的にはmixi上に引き止められたままのような状態ではなく、是非ともなるべく早く”私”を退会させて眠らせてくれぬものかと・・・。
ずっと繋がっていたいかたの気持ちはよく分かるが、私の場合ならきっと退会を願う。
mixiの退会は本人の手続きによるのがmixiの決まりなのでどうすることもできないけれど、もし私が急逝し、自分ではどうにもできなくなったら・・・他にも方法で私を葬って欲しいのだ。
それはマイミクシィさんが1人もいなくなった場合、ある一定の期間を経て自動的に退会となってしまうという仕組みを使うのである、それもまたmixiの決まりなのだ。
具体的にはマイミクシィとして繋がっている皆が私との繋がりを解除して欲しいのである、私のマイミクシィがゼロになれば、後日私はmixiを退会となり眠ることができる。
こんな寂しいことを書いてしまったのはトップ画像の笑みと亡くなられた現実の落差に背を押されてのこと、暗い投稿で申し訳ない。
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