それはとても仲の良い姉妹で、中学校では「あたしたちはどちらも”あきこ”なのよ」と皆に言う年子の二人がいた、もうずっと昔の、私が小学生の頃のこと。
実際には姉が”章子(あきこ)”、妹が”晶子(しょうこ)”、読みとしてはどちらも”あきこ”と読めるので仲の良い二人は「私たちはどちらも”あきこ”なのだ」と自慢気に言っていた。
その姉妹の住まいは私の実家と同じ町内で、後に隣の町へ引っ越されたが、顔見知りのほとんどがこちらだったので何かにつけてよく遊びに来ていた。
私の高校生活もそろそろ終わろうかという頃、姉の章子さんが結婚を前提とした付き合いをしているという男を実家に連れてくるようになった、「お式(結婚式)はいつなの?」などと近所の人にからかわれていたのをよく覚えている。
ところが、実際に男と結婚したのは妹の晶子さん、男は実家に来るようになって晶子さんと出会い、結果として姉よりも妹に惹かれたということなのだと思う、複雑ないきさつは分からない。
その結婚を境に姉は妹を”あきこ”とは呼ばなくなり”しょうこさん”とさん付けで呼ぶようになった。
冗談のひとつすら口にすることもなくなり、呼びかけを聞こえぬかのように無視し、すぐそこに我が妹が立っていることを知っていながら、さも、たった今気がついたと言わんばかりの意外そうな顔で「あら」と作り笑いをしてみせる。
その接し方は一見穏やかではあったけれど実のところ一切がそうではなかった。
更に数年を経たある夏の日、まだ町内に子供がたくさんいた時代の子供会の日のこと、集会所で町内会長の奥さんが子供たちにスイカを切り分けて いた時、そこへ手伝いに来ていた二人の元へお皿を返しに来た子供に「それは晶子さんから受け取ったお皿でしょ? じゃ、私じゃなく晶子さんに渡してちょうだい」と章子さんは台所の近くで言い放ったのである。
膠も無いその口調と、黙々と手元の作業を続けつつの沈黙に、隣の部屋で子供たちに配る花火の袋詰め作業中の私は例の件から何年も経つのに実はまだ何ひとつとして許していないのだと確信した。
実家に姿を見せることもなくなった晶子さんは姉と結婚するはずだった男と西区で新居を構え、独身のままの章子さんは二人暮らしをしていたお母様が亡くなられたのを機に四十路半ばで実家を売り払い、少し離れた同じ区内の分譲マンションへ引っ越して行った。
2年前の9月、章子さんは脳の血管障害で倒れてそのまま亡くなり、そして今日、晶子さんが長患いの病気で亡くなったらしい。
日は違えど同じ9月である、逃げ場のない深い女の業に翻弄された姉妹は怨嗟の余韻だけを残して皆の記憶から薄れてゆくこととなる。
秋になるとあちこちから生えてくる真っ赤な彼岸花を気味が悪いと言って嫌い、その時期になると庭先にその花が咲くお宅の前だけを小走りで通り過ぎていた仲の良い二人を思い出す。
もうそろそろ、彼岸花も咲く、そんな今日の出来事である。
2009年7月16日木曜日
主役は同年代
昨日と今日は滅多にない平日の2連休、お陰でmixiの参加コミュニティの過去ログをほとんど読み終えることができた。
もうひとつ、録り溜めていた海外ドラマも全て観終えた。
WOWOWで放送されている「ミディアム4 霊能者アリソン・デュボア」と、今シーズンが始まったばかりの「コールドケース5」、どちらも女性が主役のドラマ。
私は登場人物や物語の展開が若過ぎたり生活感に乏しいドラマには面白味を感じない、なので私が録画予約するものには疲れた中年や悩める中年がたくさん出てくる。
2009年6月27日土曜日
コストコ
本当なら仕事は休みだった今日は病欠で1人足りないという事情で午前中だけ仕事に行った、平日と違ってのんびりペースだったので疲れることもなかった、それが終われば帰宅、宵の内までの空き時間にそろそろ会員カードが失効期限を迎えそうなコストコ(糟屋郡久山町)まで車で行ったのだった。
特に欲しいものは無かったが、そろそろ会員更新の時期で更新するかどうかは微妙だったので失効する前の入れるうちにもう一度行っておこう・・・というのが今日の目的。
滅多に土曜には行かず、日曜と違ってずっと人も少ないだろうと思えば意外と人は多かった、きっとパンくらいは買うだろうと一応大きなカートを押して店内へ、いつものようにシナモンの香りがする、奥のベーカリーでそれを使った何かを焼いているのだ、シナモン入りの何かはパイか? ベーグルか? いい香りだ。
2009年4月28日火曜日
水の味
福岡市の水は不味い。
消毒用に添加された塩素臭がするのは仕方ないのだが、気温と共に水温も上がればなんとなくだがカビ臭さのようなものを感じてしまうので余計に不味いのである。
これがどこぞの名水のように山の麓の輝くような湧き水であればそんなこともないのだろうけど。
とはいえ、きれいな水なら一律で美味しいかと言えばそうとは限らない、福岡市東区の海水淡水化施設「まみずピア」では日々大量の真水が海水から作られているが、出来上がった水はピュア過ぎて美味しくないらしい。
そこで、普通の真水とブレンドして市内に配水しているという。
そして今日、生まれて初めてペットボトルの水を飲んだ、「水は蛇口から」というのが当たり前で、わざわざ金を出して水を買うなどというのは考えたことなどなかったけれど、頭痛薬を飲まんがために500mlで90円弱の天然水を買った。
仕事場で使う水は別途浄水器を通しているので特に不味いということはないけれど、今日買った水ははっきりと美味しい、何がどう違うのかと訊かれれば具体的に答えるのは難しいのだけれど確かに違う。
・・・プラセボ効果だろうか?
いいや、匂いではなく香りのようなものを感じる、微妙に成分も違っているはず、それ故か無味のはずなのに美味しいと感じる。
福岡では高価でややこしい浄水器を通して臭いを取り除き、ミネラル豊富な活性石のような濾材を通してでないと美味しさが出てこないけれど、天然のままで不味さが無いどころか美味しさを感じる水は全国各地にあるのだろうと思う。
近い場所なら大分や熊本にはきれいな湧き水があちこちから湧いている、わざわざ遠くから汲みに来る人もいるほどなので美味しい水なのだろう。
ペットボトルの水を口に含んですぐに違いを感じ、少し驚いてしまったそんな宵の内、頭痛で薬を飲む必要など無かったなら、これから先もペットボトルの水の味など知らぬままだっただろうと思う。
ペットボトル入りのお茶ならよく買っているのだけれど。
消毒用に添加された塩素臭がするのは仕方ないのだが、気温と共に水温も上がればなんとなくだがカビ臭さのようなものを感じてしまうので余計に不味いのである。
これがどこぞの名水のように山の麓の輝くような湧き水であればそんなこともないのだろうけど。
とはいえ、きれいな水なら一律で美味しいかと言えばそうとは限らない、福岡市東区の海水淡水化施設「まみずピア」では日々大量の真水が海水から作られているが、出来上がった水はピュア過ぎて美味しくないらしい。
そこで、普通の真水とブレンドして市内に配水しているという。
そして今日、生まれて初めてペットボトルの水を飲んだ、「水は蛇口から」というのが当たり前で、わざわざ金を出して水を買うなどというのは考えたことなどなかったけれど、頭痛薬を飲まんがために500mlで90円弱の天然水を買った。
仕事場で使う水は別途浄水器を通しているので特に不味いということはないけれど、今日買った水ははっきりと美味しい、何がどう違うのかと訊かれれば具体的に答えるのは難しいのだけれど確かに違う。
・・・プラセボ効果だろうか?
いいや、匂いではなく香りのようなものを感じる、微妙に成分も違っているはず、それ故か無味のはずなのに美味しいと感じる。
福岡では高価でややこしい浄水器を通して臭いを取り除き、ミネラル豊富な活性石のような濾材を通してでないと美味しさが出てこないけれど、天然のままで不味さが無いどころか美味しさを感じる水は全国各地にあるのだろうと思う。
近い場所なら大分や熊本にはきれいな湧き水があちこちから湧いている、わざわざ遠くから汲みに来る人もいるほどなので美味しい水なのだろう。
ペットボトルの水を口に含んですぐに違いを感じ、少し驚いてしまったそんな宵の内、頭痛で薬を飲む必要など無かったなら、これから先もペットボトルの水の味など知らぬままだっただろうと思う。
ペットボトル入りのお茶ならよく買っているのだけれど。
2009年4月25日土曜日
豆炭の謎
午前中に実家へ里帰り中の友人と暫し電話で話しをする、仕事の都合で暦通りの連休がとれず、よそより早めのゴールデンウィークだと言う。
景気の悪さに話が移った時に「君のところは不況知らずなのが羨ましいなどと言うので」つい「そんなことはない、必死豆炭だ」と言い返すと「まめたん?」と話があらぬ方向へ飛んでしまった。
てっきり広く使われていると思っていたが、それを打ち砕いたのが一昨年(?)の城島(マリナーズ)の「必死豆炭で追い掛けます」という発言に対する「必死豆炭って何?」という他所での反応。
必死豆炭=必死になって頑張るという意味、とはいえ「豆炭」だけで「頑張る」という意味はなさない、豆炭だけならあくまで燃料としてのそれなのだ。
そもそもなぜ「豆炭」なのだろう?
「必死練炭」や「必死木炭」、「必死石炭」などとは言わない、「マメに頑張る」などの「マメ」を継いでいるのだとか、豆炭は着火しにくく燃えるまであれこれ頑張らなくてはならないから・・・等と諸説あるけれど、どれも今ひとつピンと来ない、なので確かなことは分からない、生活の中で受け継いできた言葉なので特に語源について考えたこともなかった。
・・・今となっては豆炭や練炭などを知らぬ人もたくさんいそうな気もしますが。
そう、年代による境がありそうな気がするのだ、20代は使わないし知らないだろう、30代は知っているかもしれないが使わないだろう、40代ならもしかすれば使うかもしれない、50代なら抵抗なく使うだろう、60代以上は当たり前の日常の言葉だったりして。
改めて考えてみれば不思議な言葉、「豆炭」である理由はさておいて、なぜ主に福岡(もっと広く九州北部か?)に偏って使われているのだろう、なんとも面白いことである。
豆炭は日本全国どこにだってありそうなのに。
この豆炭の謎に対抗できるのは大阪の「レンコン」くらいではなかろうか、何故そうなのだという点に於いて、その両者は互角な気がする。
景気の悪さに話が移った時に「君のところは不況知らずなのが羨ましいなどと言うので」つい「そんなことはない、必死豆炭だ」と言い返すと「まめたん?」と話があらぬ方向へ飛んでしまった。
てっきり広く使われていると思っていたが、それを打ち砕いたのが一昨年(?)の城島(マリナーズ)の「必死豆炭で追い掛けます」という発言に対する「必死豆炭って何?」という他所での反応。
必死豆炭=必死になって頑張るという意味、とはいえ「豆炭」だけで「頑張る」という意味はなさない、豆炭だけならあくまで燃料としてのそれなのだ。
そもそもなぜ「豆炭」なのだろう?
「必死練炭」や「必死木炭」、「必死石炭」などとは言わない、「マメに頑張る」などの「マメ」を継いでいるのだとか、豆炭は着火しにくく燃えるまであれこれ頑張らなくてはならないから・・・等と諸説あるけれど、どれも今ひとつピンと来ない、なので確かなことは分からない、生活の中で受け継いできた言葉なので特に語源について考えたこともなかった。
・・・今となっては豆炭や練炭などを知らぬ人もたくさんいそうな気もしますが。
そう、年代による境がありそうな気がするのだ、20代は使わないし知らないだろう、30代は知っているかもしれないが使わないだろう、40代ならもしかすれば使うかもしれない、50代なら抵抗なく使うだろう、60代以上は当たり前の日常の言葉だったりして。
改めて考えてみれば不思議な言葉、「豆炭」である理由はさておいて、なぜ主に福岡(もっと広く九州北部か?)に偏って使われているのだろう、なんとも面白いことである。
豆炭は日本全国どこにだってありそうなのに。
この豆炭の謎に対抗できるのは大阪の「レンコン」くらいではなかろうか、何故そうなのだという点に於いて、その両者は互角な気がする。
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